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念珠の形(真言宗・その2/南都六宗)

秋が深まってきました。
【大徳寺の紅葉】
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【東福寺の紅葉】
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京都の秋は紅葉の色づきに合わせて深まっていくのが感じられます。
さて、少し間が空きましたが、念珠の形の続きです。
先日までは天台宗と真言宗についてみてきましたが、天台宗と真言宗が開かれる前から仏教は日本にありました。その代表が奈良の寺院です。総称して「南都六宗(なんとろくしゅう/なんとりくしゅう)」と呼ばれます。「京都から見て南の旧都にある6つの宗派」という意味ですが、6つの宗派の内、大きくは3つの宗派が現在もその流れを遺しています。東大寺(華厳宗)、薬師寺、興福寺(以上、法相宗)、法隆寺(聖徳宗〔法相宗の一派〕)、唐招提寺(律宗)といった奈良の大きなお寺に加えて、京都には清水寺(北法相宗〔法相宗の一派〕)や新撰組ゆかりの壬生寺(律宗)といったお寺があります。
南都六宗は国を護るための仏教でした。ですから、天皇や貴族といった階層の人々がその対象で、一番大切なことは国を護るためにお祈りすることでした。その後の宗派が一般の民衆を救済することを目的としていたのとは少し趣が違います。
国を護ることが第一義ですから、時代を経るごとに密教の影響、特に真言宗の影響を受けることとなります。真言宗は即身成仏(=生きた人間が行をすることで悟りをひらいて仏になること)と鎮護国家(=仏教で国を護ること)の2つが大きな綱領ですから、自然な流れと言えます。例えば、かつて南都六宗の1つを形成していたお寺に西大寺があります。西大寺は名前の面からも東大寺と対であることが分かると思いますが、西大寺は現在真言宗の一派である真言律宗となっています。
ですから、南都六宗の宗派の方々も真言宗のお念珠を用いられます。
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上の画像は真言宗のお念珠です。お念珠には一般的に主珠で構成されるお念珠本体から双方向に房という部分が出ています。上の画像の通り、真言宗のお念珠には表房と裏房の両方に弟子珠と露珠が付いています。そして、表房にだけ浄明珠という珠が付いています。浄明珠は表房の位置を示す珠です。というのも、電気のない暗闇でお祈りをする時に、真言をどれだけ唱えたのかを数える際、表房と裏房が分かることが肝心だからなのです。実用面を考慮して、こうした形が出来上がったのだと私は考えています。
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真言宗のお念珠は、国を護ることを目的とした宗派の成立から実用を踏まえて形が出来上がっていったのだと分かります。お念珠の形を見るだけで、日本の仏教の歴史を垣間見ることも出来るようにも感じます。

念珠の形(真言宗・その2)

11月に入って秋らしさが増してまいりました。
昨日、私は洛東の金戒光明寺に参りましたが、徐々に色づき始めたお庭を見ることができました。
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さて、前回から真言宗についてみています。真言宗では他の宗派に比べて特に念珠を大事にされます。それもそのはず、宗派の名前からも分かる通り「真言(真理を表す仏様の言葉)」を大切にしたお宗旨だからです。この「真言」を数えるためにお念珠は用いられます。
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真言宗の教えの基礎をなすのは「密教」です。「密教」とはその名の通り「秘密の教え」です。これと対比される「顕教」、つまり「顕らかな教え」を修得した人だけが学ぶことのできる教えです。
真言宗では大日如来様と一体となることを目指して行がおこなわれます。この大日如来様、手の組み方が特徴的です。忍者が忍法を唱える時の手の組み方と似ているように感じます。勝手な解釈ですが、密教での「秘儀(秘密の儀式)」は忍者の忍法と同じく、修行をやり遂げた人だけに許されるものであると理解できると思います。
(詳しい解説は京都国立博物館のホームページをご覧ください。)
真言宗では、大日如来様と一体となることが重要とされています。そのために自然の中で修行をします。滝に打たれる行などはこうした考えから生み出されたものです。大日如来様は万物を超越しておられますが内在もしておられます。これはつまり、「自然の中のどこかに居られる大日如来様が、実は自らの中に内在していることに気が付く」ために修行していると理解できるように思います。
簡単に言えば、「大日如来様を喜ばせ、大日如来様が存在をお知らせくださり、自らの近くに居られることに気付く」が真言宗の教えではないかと考えています。(「大日如来様を喜ばせる」という表現は語弊があるかもしれませんが、「大日如来様に自らを気付いていただく」という意味合いでこの表現を用いています。)
真言宗のお念珠の特徴は、真言を唱えて大日如来様を喜ばせること、そのお道具として念珠は用いられています。

念珠の形(真言宗・その1)

前回までは天台宗について概観しておりましたが、今回からは真言宗についてです。
前々回ご紹介した鎌倉新仏教の開祖様たちが比叡山で修行をされた点、疑問を持たれた方も多いかもしれません。というのは、天台宗だけではなく真言宗で修行をしていた僧侶の中で新たな宗派を開いた方は居られなかったのか、という点です。
真言宗の教えの重要なものの1つに「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」という考え方があります。簡単に言えば「生きた人間が行をすることで悟りをひらいて仏になること」という意味です。このために、全身のすべての感覚を用いて師匠から弟子に教えが伝えられていきます。全身すべての感覚ですから、言葉(口・耳)だけでなく行動(視覚)や手を握るなどの触覚、そして臭覚などありとあらゆる感覚を使って教えが伝えられます。ここから分かるのは、天台宗の系統に属する宗派は行(体を使った修行)と仏典解釈(頭を使った修行)を融合している一方で、真言宗の系統に属する宗派は仏様(大日如来)と一体となることを目的として行(体を使った修行)がその根本に置かれているのです。これが、新たな宗派を開いた者が真言宗から登場しなかった理由なのだと私は考えています。念珠の形にもこの点が違いとして現れます。
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(上の画像は、堂本印象が描いた弘法大師像(教王護国寺(東寺)蔵)を複写したものです。)
弘法大師・空海は日本の各地を巡りました。その最たる例が四国八十八箇所、通称「お遍路さん」です。お遍路さんは弘法大師の入定(空海は死去しても未だ高野山奥之院で衆生救済を祈願しているとされている)後に確立されました。体を使って御大師様の足跡を巡るということが、出家した者だけでなく、一般の信者にも行われてきた、まさにこのことが真言宗の教えの根本が全身のすべての感覚を使って仏と一体化する点に通じるのだと私は感じています。
次回、本格的に念珠の形をみていきます。

念珠の形(天台宗・その2)

先週の更新ができず申し訳ありませんでした。
今回も天台宗の念珠の形についてのお話の続きです。天台宗と真言宗の大きな違いは弊社のホームページの『念珠のはなし』「第6話 天台宗と真言宗の念珠」にございますので、そちらをご覧ください。
天台宗の念珠の特徴は平珠ひらだま という算盤そろばん 玉のような形の珠を用いる点です。これは念珠を擦って音を出す為だと言われています。この音が「魔除け」になると考えられていることが、平珠を用いることの理由であると考えられます。前回ご紹介したように、天台宗は「ぎょう 」がその中心となっており、こうした「ぎょう 」の最中に襲ってくる災難(魔)を取り除くことがこの念珠の特徴なのだと私は考えています。以前このブログでご紹介した「念珠はお守りとしての役割がある」という私の考えも、ここから着想を得ています。
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天台宗の「ぎょう 」や仏典解釈の「法会ほうえ 」(=集まりのこと)などについて体系的にまとまられた書籍があります。大阪・貝塚の水間寺みずまでら 武覚超たけかくちょう 貫主様の博士論文の一部である『比叡山仏教の研究』(法蔵館、2008年)です。織田信長の比叡山焼き討ち以降の比叡山仏教の歴史を中心に史料を博捜はくそう された労作です。
この本の内容を簡潔にご紹介することは到底できません。ただ、天台宗の教えの根幹を成すのは伝教大師様が書かれた『山家学生式さんげがくしょうしき 』であることは論を ちません。内容は「一隅を照らす運動」ホームページをご覧いただきたく存じます。大切なことは、「道心(悟りを求める心)を持った人こそ国の宝なのだ」という点です。
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念珠は「お守り」であると同時に「仏様と私たちを繋ぐ絆」ではないか、と考えています。念珠を皆様の傍らに抱くことは、皆様を守って下さる「お守り」とその保護者である仏様との繋がりを認識することに意味があるのではないか、と私は考えています。

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比叡山仏教の研究

著者:武覚超 
出版社:法蔵館
発売日: 2008/03/16
メディア: 単行本(ハードカバー)
参考URL:比叡山仏教の研究
(法蔵館)

 

念珠の形(天台宗・その1)

今回からは各宗派のお念珠に関して個別にみていこうと思います。
今回は、その枕としてのお話です。
初回は天台宗についてです。日本の仏教は飛鳥時代に朝鮮半島から伝来したと言われています(諸説あり)。仏教が日本に伝来してから約150年が経過した頃、奈良から都を移すこととなり、新しい都の精神的支柱として最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)が選ばれました。2人の御大師様は唐(中国)で仏教を学んでいましたので、お二人は当時、現在で言うところの「留学経験のあるエリート」でした。
大師号からも分かる通り、最澄は「教え(仏教)を伝え」、空海は「法(仏法)を弘め」ました。すなわち、最澄は比叡山を根本道場として仏教を伝えることに注力し、空海は各地を廻って仏法を弘めました。
天台宗には様々なぎょう があります。最近、報道された千日回峰行せんにちかいほうぎょう もその1つです。千日回峰行のように地球1周分歩くぎょう もありますが、12年を超えて伝教大師の御廟ごびょう の傍にお仕えするぎょう 、朝昼夜と読経を続けるぎょう もあります。どれも今でも続く厳しいぎょう です。比叡山では、こうしたぎょう と並行して、仏典解釈も行われました。
ぎょう (体)と仏典解釈(頭)の両輪で天台宗は脈々と受け継がれてきました。その中から独自の解釈を行う者が出てきました。
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(上記の画像は比叡山延暦寺・発行『伝教大師ご一代記』に掲載されているものです。)
上記に掲げた6人の御大師様は皆、比叡山で学んでいます。ですから、6名の御大師様の開かれた宗派のお念珠の形は天台宗の系統を受け継いでいます。
その詳細は次回以降にご紹介することとします。

解釈

近年は小学校で英語を習うそうですが、私が英語を習ったのは中学校からでした。「英語→日本語」と「日本語→英語」の訳文が作れるようになることが学習の目標だったと思うのですが、英語を習い始めた当初から「解釈」という言葉に何か不思議な感覚を抱いていました。
夏目漱石の有名な小説に『吾輩は猫である』があります。この題名を英語に訳すと「I am a cat.」です。ですが、「I am a cat.」を日本語に訳す場合、例えばテストの解答用紙に「吾輩は猫である。」と書く人は少ないでしょう。私は中学校1年生の時にこの疑問を抱いて、勝手に「“吾輩は猫である”問題」として中学校で語っていました。この問題は、日本語と英語の構造の違いが要因ですが、私は「(英文)解釈」とは単なる訳文を作るだけでなく、読み手に分かり易い表現を使うべきなのだと学びました。
日本では、英文だけでなく古くから漢文が読まれてきました。漢文も英語と同じくS(主語)→V(動詞)を基本形にした文法をとります。経典に代表される仏教に関する文章はその多くが漢文で書かれており、英文と同じく解釈が必要になります。ですから、その語を見て即座に意味を理解できる人はそれほど多くないと思います。
「解釈」というのは地道な作業で、何か分かり易く解説してくれる書籍はないものかと思っていました。そこに最近、何とも分かり易い書籍が出版されました。『茶席からひろがる漢詩の世界』という本です。この書籍は単なる日本語の訳文だけでなく、1つ1つの単語やその背景知識を丹念に解説してくれています。その解説方法も、先生と生徒役の女の子がいろいろとやり取りをする形で展開されています。「漢文解釈」を分かるように示してくれる良書だと感じました。
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弊社には、上の画像の香語(法要の要となる精神を漢文調にまとめたもの)を掲げてあります。

【原文】
甘露雨潨蒼翆中
念珠結絆白玲瓏
年年等接温和手
綿密家風老舗隆
 安田念珠店主人いわく
 手のひらから伝わる素敵なぬくもり
 平成廿四年梅雨 花園太聳たいしょう 山人

【絶句の部分の現代語訳】
恵みの雨は樹木が青々と茂っている中に集まり、
念珠は美しく照り輝く絆を結んでくれる。
それは、長い年月、温かな手にいつも接しているとそうなるのだ。
そして、綿密な家風が老舗を盛んにさせる。

揮毫して下さったのは、京都・花園妙心寺塔頭・霊雲院住職の曇華室どんげしつ 則竹秀南老師様です。弊社はこの偈にある通り、お念珠に対して一生懸命、そして緻密に向き合って参り、今後も向き合っていく所存です
次回以降は、宗派毎の念珠の形について、私なりの「解釈」を提示していきたいと考えています。

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茶席からひろがる漢詩の世界

著者:諸田龍美 
出版社:淡交社
発売日: 2017/09/13
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL:茶席からひろがる漢詩の世界
(淡交社)

 

念珠の形(総論・その2)

「果報は寝て待て」ということわざをご存知でしょうか?このことわざは「幸運は人の力ではどうすることもできないので、チャンスが巡ってくるまで待っていればよい。」という意味です。ただ「寝て待て」とは言いながらも、もちろん何もせずに寝ていてはいけないのでしょう。努力をすることが大事なのだろうと思います。
この「果報」という言葉、「功徳」や「ご利益りやく」などと言い換えても良いかもしれません。そうするとこのことわざは「ご利益りやくは時機が来れば現れる。」と解釈できます。
さて、7月に達磨大師と梁の武帝との問答をご紹介しました。そこでは、武帝が「私はこれまで寺を建て、経を写し、僧尼を供養してきたが、どんな功徳があるか?」と尋ねると、達磨大師は「無功徳(何の功徳もありません)」と答えた、と記しました。
武帝は「こんなに良いことをしたのだから、私にはたくさんご利益りやくがあるはずだ!」と思っていたのでしょう。何かを求める人には何のご利益りやくもないのです。


前回、お念珠にはお守りとしての役割がある、と申し上げました。
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上の画像のお念珠はどちらも星月菩提樹せいげつぼだいじゅという材を用いたお念珠です。
左側の白っぽいお念珠が新しいもの、右側の茶色掛かったお念珠が長年使用したものです。もちろん少し加工してはおりますが、年を経て使い続けるとこのように木の材は変化していきます。こうした色の変化は決して”求めて”出来上がるものではありません。人の手のぬくもりに木が反応して「つやが出る」のです。そのお念珠が使われる頻度のよって、同じ年数所有されていても「つや」に差が出ます。
「お念珠はお守りである」と私が考えるのは、お念珠にはお持ちになる各々の方への「ご利益りやく」が投影されるものだと考えるからです。決して求めて手に入れられるものではありませんが、若くても年を重ねていても、男性でも女性でも、そんなことは関係なく、いつも皆様の傍らにあって守って下さり、いつの間にか「ご利益りやく」が備わって来るものなのです。
お念珠にはこうした変化を仏教的に「ご利益りやく」と捉えることも出来ますし、単純に色の変化を楽しむことができるという2つの側面があります。皆さまがお念珠を傍らにお持ちになって「ご利益りやく」を受けられることを私は切に願っております。

念珠の形(総論・その1)

これまでいろいろとお話をして参りましたが、今回からは「念珠(数珠)」の形についてお話を進めていこうと思います。
初回の今日は、総論として「念珠」についてのお話です。
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上の図は「数珠挍量きょうりょう功徳経」と呼ばれるものです。一般に「念珠功徳経」と呼ばれるお経を基にした図です。「念珠功徳経」は念珠を持って念仏や仏様のお名前を唱えることで功徳があることを説いたお経です。念仏を重んじる浄土真宗で特に重用されるお経です。その為、この図も浄土真宗の形のお念珠が描かれています。(このお経の詳しい解説は国立国会図書館デジタルコレクションにあります『数珠功徳経和解』(貝葉書院、1896年)をご覧ください。)
この図を見ると、念珠の珠には全て仏様が宿っておられることが分かります。
図の上下にある一番大きな2つの珠は親玉おやだまと呼ばれますが、ここには釈迦牟尼仏(お釈迦様)と地蔵菩薩(お地蔵様)が宿っておられます。そして、念珠本体の基点となる4つの珠を四天玉してんだまと呼びますが、ここには不動明王と愛染明王あいぜんみょおう善財童子ぜんざいどうじ善蜜童子ぜんみつどうじが宿っておられます。
この図を簡単に解釈すると、図の上がお釈迦様のお住まいになる極楽、そして図の下が地獄です。ですから、この図の地蔵菩薩の近くには「地獄」と書かれているのが分かります。
お地蔵様は「釈尊が入滅されてから、弥勒菩薩が下生して仏になるまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生しゅじょうを教化・救済する菩薩」『広辞苑〔第6版〕』(岩波書店、2008年)ですから、地獄から魂を救ってくださるのです。
お念珠には宗派によって様々な形がありますが、基本的にはどの宗派であっても主玉にはお釈迦様が宿っておられます。皆さまがお使いのお念珠も、普段から身に付けて頂ければ、お釈迦様が皆様一人一人をお守り下さるのです。お念珠は「お守り」としての役目があると言えます。
次回は、「功徳」という面に焦点を当てて、総論の続きをお話ししたいと思います。

念珠の素材は何が良いのか?

念珠は一般的に「数珠」と言われます。というのは、マントラといわれる呪文をどれだけ唱えたかを把握するのが念珠の起源だから、だと考えられています。「呪文」というと魔法使いをイメージしてしまいます(笑)が、一番分かりやすい「呪文」が念仏です。
弊社は誓願寺というお寺の門前に位置しております。誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山です。
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浄土宗は以下の4派に大きく分かれています。
○鎮西派(一般的に「浄土宗」と呼ばれます。)
→総本山:知恩院
○西山派
・浄土宗西山禅林派
→総本山:永観堂 禅林寺
・西山浄土宗
→総本山:粟生光明寺
・浄土宗西山深草派
→総本山:誓願寺
現在は4派に分かれていますが、そのすべては法然上人の教えから始まった宗派です。
法然上人には沢山の著作がありますが、私が一番読みやすかったのは『一百四十五箇条問答』という著作です。これは一問一答形式で法然上人が質問にお答えくださっているものです。
145の問答の中で「数珠」に関する問答が3つあります。そのうちの1つをご紹介します。
一三七
【原文】
一つ、数珠には桜、栗忌むと申し候はいかに。
答ふ、さる事候はず。
【現代語訳】
「数珠に桜や栗を使うのは縁起が良くないということはどうでしょうか?」
「お答えします。そのようなことはございません。」
桜の木や栗の実が具体例として挙げられています。諸説ありますが、桜はパッと咲いてパッと散るので、栗はお寺の「庫裏」と発音が同じなので縁起が悪いと考えられたそうです。私はこの問答から次のことを解釈しました。すなわち、高貴なものを身につけることが大切なのではなく、身近なものでも良いから只管に念仏を唱えることが大切なのだ、ということです。
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弊社でも桜の木を素材とした念珠を扱っております。上の画像の念珠が桜の材を使った念珠です。使い続けると味が出る良い念珠です。

法然上人は阿弥陀経を漢音、呉音、訓読の3通りで毎日唱えられたそうです。凄まじいことですよね。
これだけ阿弥陀経を唱えられた法然上人が「只管に念仏を唱えなさい」と説かれるのですから、念仏には凄い力がありそうな気がします。
身近なものと共に念仏を唱える。念珠は特別なものではなく、身近なものなのだという感覚をお持ち下さると、弊社としては大変嬉しく思います。

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一百四十五箇条問答――法然が教えるはじめての仏教

著者:法然 
訳・解説:石上善應 
出版社:筑摩書房
発売日: 2017/07/10
メディア: 文庫本
参考URL:http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480098061/
(筑摩書房)

 

縁を紡ぐ

先日、自宅近くを歩いていたところ、お世話になっている先生に偶然お目にかかりました。大変お忙しい先生なのに、「こんなところで遭遇できるなんて!」と驚いてしまいました。
本当に”不思議”なことです。
「不思議」という言葉も実は仏教から来た言葉です。「摩訶不思議」といった方が仏教用語っぽく聞こえるかもしれません。「摩訶不思議」は「非常に不思議なこと」とも訳されますが、「人知〔=人の知恵〕を越えた(素晴らしい)こと」と私は理解しています。
先週「知恵」についてお話しました。「知恵」という言葉は「悪”知恵”」と使うこともあり、必ずしも良い意味だけで使われるわけではありません。『旧約聖書』の原罪の話も、人の知恵には限界があることを教えてくれています。
そこで重要なのが、「智慧」なのです。「智慧」とは、辞書によると「仏教の真理に即して、正しく物事を認識し判断する能力。」とか「事に当たって適切に判断し、処置する能力。」とあります。私は「先人たちの失敗から生まれた教訓」と理解しています。もしかすると、「智慧」は「失敗は成功の基」を難しくいったことと理解すれば良いのかもしれません。
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人と人の出逢いは偶然で不思議なものです。この「縁」は最初1本の糸ですが、何度も交流を重ねることで「縁の糸」が紡がれて行きます。人との縁を紡ぐのは、自分1人の限りある”知恵”を多くの縁によって”智慧”へと転換するためなのだと思います。
多くの人と交流を重ね「縁の糸」を紡いで行く――これが弊社の扱う念珠の象る形なのではないか!?
仏教の教えから生まれた商品の形について、こうした感想を私は抱いています。

安田念珠店

〒604-8076 京都市中京区御幸町通三条下ル海老屋町323

TEL:075-221-3735 FAX:075-221-3730

E-mail:yasuda@yasuda-nenju.com

受付時間:平日(月~金曜日)AM9:00~17:30まで