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「念珠」の「珠」について(その2)

今回も前回の続きです。念珠の「珠」について考えていきます。
前回、「珠」とは「皆様の中の佛が表出したもの」と書きました。ここで私が「佛」と書いたことに疑問を抱かれた方もおられるのではないでしょうか?
というのも、「佛」といえば「仏陀」や「お釈迦様(釈迦牟尼佛)」のことを想起される方が多いのでは、と考えるからです。
確かに、お釈迦様は悟りをひらかれて仏陀(=悟りの境地に達した者。覚者。)となられました。ですから、「佛」と聞いてお釈迦様を連想なさることは間違いではありません。ただ、「佛」とは唯一絶対のものではないのです。
以前ご紹介した禅画で有名な白隠禅師が坐禅和讃というものを残されています。全文はこちらをご覧ください。坐禅和讃は「衆生本来佛なり」から始まり、「この身即ち仏なり」で終わります。
「衆生本来佛なり」とは「みんな仏さま」と解釈すると分かりやすいです。
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そして、「この身即ち仏なり」とは、その通り「この身がそのまま仏さまなのです。」と解釈できます。
お釈迦さまは2000年以上前の方ですが、生まれた時から仏様ではありませんでした。悟りをひらかれて、多くの説法をなさいました。それがお経や仏典として遺っています。私の想像ですが、悟りをひらかれたお釈迦さまが多くの説法をなさったのは、誰でも仏となる可能性がある悟りをひらくことが可能!)と感じられたからではないでしょうか?
皆は気付いていないかもしれないけれど、実は皆の中には仏さまが居るのだよ。」――――そんな風に仰っておられるように私は感じ、想像しております。もちろん、私個人の勝手な想像ですので間違っているかもしれません(笑)
ですが、白隠禅師の坐禅和讃を読んでも、そういった意味合いが読み取れますので、あながち間違ってはいないかもしれないとも思います。


お念珠を長く使い続けて頂くと、皆様の中にある「佛」が表出する。自らが気付いていない自分をお念珠を通して気付くことができるかもしれない。これが弊社が「念珠」という言葉にこだわり続ける理由だと考えております。

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人はみな仏である――白隠禅師坐禅和讃・一転語

著者:朝比奈宗源 
出版社:春秋社
発売日: 2011/05/20
メディア: 単行本(ハードカバー)
参考URL:http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-14421-3/
(春秋社)

 

「念珠」の「珠」について(その1)

さてさて、しばらく間が開きましたが、「念珠」について1文字ずつ考えることの続きを綴ってみたいと思います。
今日は「珠」という字についてです。「珠」という字を普段あまり使うことはないと思います。恐らく最もよく知られた単語は「真珠」ではないでしょうか?
「珠」を辞書で引くと次のように書かれています。
1.(水中で産する)丸いたま。しんじゅ。また、美しく、立派なものを形容することば。
2.真珠のように丸いもの。
『goo国語辞書』より
ふむふむ。つまりは、美しいものを指した言葉なんですね。しかし、「珠」は単に「美しい」だけではありません。
仏教の数多ある経典の中に『妙法蓮華経』というお経があります。一般には『法華経』として知られています。「南無妙法蓮華経」と毎日唱えておられる方には馴染み深いお経です。
『法華経』の中にはお釈迦様が分かりやすく喩え話をして下さっている部分があります。「7つのたとえ話」として知られているかもしれませんが、今回はそのうちの一つ「衣裏珠(えりじゅ)のたとえ」をご紹介します。
とある貧乏な男が金持ちの親友の家で酔って眠ってしまいました。金持ちの親友は、用事があって男が眠っている間に出かけなければならなくなりました。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけました。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していました。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができました。
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(上の画像の書は、京都・花園妙心寺塔頭・霊雲院住職の曇華室 則竹秀南老師様の揮毫された書です。)
このたとえ話は、無上の宝(つまり「佛」)を身に付けているにも関わらず、それを自覚せずに低い悟りで満足しているお釈迦様の弟子達への反省と感謝の込めた喩え話です。
真珠は生きた貝(アコヤガイなどが有名です。)の中に異物が入り、それが核となってあの美しい珠が出来上がります。
人も同じです。中身に実は素晴らしいものを持っています。そして、その人それぞれの経験や環境によって、その人独自の「珠」が出来上がって行くのではないでしょうか?
弊社の扱うお念珠には価格が様々あります。もちろん、高いお念珠をご購入頂くことはありがたいことなのですが、どんな価格のお念珠であっても、長く使い続けて頂きたい――これこそが弊社の最大の願いであります。
それによって、皆様それぞれの「念(=今を精一杯生きる心)」が入り、美しい「珠(=皆様の中の佛が表出したもの)」となる。これはお金では買えない、かけがえのない価値だと私は考えております。
今回は、「法華経」を手がかりに「珠」について考えてみました。「珠」については次回も取り上げてみたいと思います。

念珠製造と火除け

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本日、一部の地域では「春一番」が観測されました。春の訪れを感じさせる季節になりました。
さて、先週ご紹介した節分のお詣りから、本日は念珠製造と火除けの関係性をお話ししてみたいと思います。
念珠は糸と珠を組んで製造するものです。火とどう関係するのか、分かりにくいところがあると思います。実は念珠製造の際、火を使うことがあります。
切房(きりふさ)という種類の房があります。房には他に撚房(よりふさ)という種類があります。例えばこちらの念珠の房は撚房ですが、こちらの念珠の房は切房です。撚房はその名の通り糸を撚って作っておりますので、ほつれにくく耐久性があります。一方の切房は好みの長さに“切って”房を成形しますのでこの名が付いたと考えられます。どちらの房も絹糸を使って作っておりますが、撚房は先程申しました通り、元の絹糸を何本も撚って1本の糸を作っているため耐久性があり、ほつれにくいものです。一方の切房は元の絹糸を撚ることなくそのまま房に仕立てますので、どうしても絡んでしまいます。
イメージしやすいように女性の髪形を例としてご説明すると、撚房は三つ編みの髪型、切房はストレートヘアーというところでしょうか。ストレートヘアーの場合、寝起きは櫛を通して、ミストをかけて……などのお手入れを必要とします。念珠の房も同じだと考えて頂ければ良いです。
切房をお仕立てする場合、右の写真の薬缶のような道具を使います。水を入れて沸騰させ、水蒸気で房を伸ばします。この工程を「湯のし」と言います。この「湯のし」を行うと、一本一本の絹糸がシャキとして、綺麗な切房になります。
念珠は珠だけでなく、房も重要な部分です。切房を用いた念珠は臨済宗などでは高僧の方々が法要の際に用いられます。
念珠を製造する過程では火を用いることが不可欠であり、そこに火除けへ執心する理由があるのです。

安田念珠店

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