11月 | 2018 | 春は花

安田念珠店 オフィシャルサイト

春は花

穴太寺~矢傷のある観音様~

秋が深まりを見せています。
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京都市から北西に亀岡市があります。亀岡市に在るのが穴太寺(あなおじ)です。
【山門】
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穴太寺の本尊様は逸話があります。宇治宮成(うじのみやなり)というお侍さんがいました。宇治宮成の奥さんはとても信心が厚く、京の都から仏師・眼清(がんせい)を招いて聖観音像を彫ってもらいました。宇治宮成の妻は眼清へ御礼の印として白馬を与えたそうです。宇治宮成はその白馬が惜しくなり、先回りして白馬に乗った眼清を矢で射てしまいました。戻ってきた宇治宮成は眼清が彫った聖観音像に矢が刺さり、血が流れているのを目にします。観音様は眼清の身代わりになったのです。宇治宮成はその一件で改心して仏門に入ったそうです。
【本堂】
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【多宝塔】
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そして、穴太寺には「安寿と厨子王」で有名な厨子王がかくまわれたお寺です。
【穴太寺の御詠歌】
「かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと 思はで頼め 十声一声 」
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長閑な田園地域に佇む穴太寺は御詠歌の通り、こんな苦しみの多い世の中に生まれたことを憂えずに、観音様に思いを聞いてもらって、私たちの苦しみ悩みを矢傷の如く観音様に受けて頂きたいと感じるお寺でした。

今熊野観音寺~頭痛封じ~

紅葉が色づいてきました。
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さて、本日は今熊野観音寺のお参りの様子のご紹介です。
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今熊野観音寺は正式名称を「新那智山 観音寺」と言います。その名の通り、西国第一番札所の那智山青岸渡寺のある熊野三山の権現さまを京都に招来してできたお寺であります。
【本堂】
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今熊野観音寺の御本尊は弘法大師が熊野権現から天照大御神の彫った観音様を授けて、洛東に観音堂を建立するように言ったという言い伝えがあります。そして、後白河天皇が頭痛に悩んだ際に頭痛を治した観音様としても知られます。
【大師堂】
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境内にボケ封じの観音様があるのもこうした経緯からです。
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【医聖堂】
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この医聖堂は医術と宗教の双方を大切にすることを願って建てられたものです。頭痛封じのお寺としての特徴を表していると思います。
【本堂と医聖堂】
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後白河法皇は頭痛が本当にひどかったようです。今熊野観音寺をお参りして、頭痛封じの観音様とのご利益を目にしましたが、こうした後白河法皇の頭痛を封じるために平清盛の寄進によって三十三間堂が建立されています。そして三十三間堂は「頭痛山平癒寺」と呼ばれるようにもなったそうです。三十三間堂の御本尊様並びに1001躯の観音様は後白河法皇の頭痛平癒の為の観音様なのだと分かりました。
嘗ての天皇の信仰を垣間見ると、どのように観音様にお詣りなさっていたのだろうか、と思いを馳せてしまいました。
【今熊野観音寺の御詠歌】
「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり 」
御詠歌(今熊野観音寺)

南都の観音様~南円堂と二月堂~

秋も深まってきました。
京都(平安京)に対して南にある奈良の旧都・平城京をかつて「南都」と呼びました。現在の奈良市を中心とした地域です。かつては政治経済の中心地でしたので、もちろん仏様がおいでになります。
近鉄奈良駅から徒歩5分ほどで到着するのが西国第九番札所の興福寺南円堂です。
【興福寺南円堂】
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南円堂の御本尊は不空羂索観音さまです。西国の札所で不空羂索観音さまが御本尊なのはこちらだけです。南円堂は藤原氏の元祖春日明神を祀った春日大社の傍らに、藤原冬嗣が子孫繫栄の為に建てたことが始まりと言われています。こうした経緯から、南円堂は興福寺の中にありながらも、明治の廃仏毀釈に遭うことがありませんでした。現在の南円堂は江戸時代の寛保元年(1741年)に建てられたものです。興福寺は明治期の廃仏毀釈で大きな打撃を受けたお寺です。時代の流れの中で歴史的な建造物が沢山壊され、仏像なども多くが海外へ流出しました。
【興福寺中金堂】
興福寺中金堂
興福寺の本堂である中金堂は2018年10月、300年ぶりに再建されました。創建1300年の興福寺は本堂を焼失したまま300年もの間を過ごしていたのです。これは歴史的なことであると思います。
【興福寺五重塔】
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歴史を知りつつお参りをすると、現在こうして仏様にお目に掛かれるのは先人たちの努力の賜物なのだとつくづく感じます。
【興福寺南円堂の御詠歌】
「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」
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南円堂を遠くから見ると御詠歌を詠われた花山法皇の気持ちがしみじみと分かります。もちろん今は「秋の日は」なのですが。
【興福寺南円堂を望む】
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さて、南円堂から徒歩10分程度で東大寺の二月堂に到達します。道中には東大寺大仏殿を見ることができます。
【東大寺大仏殿】
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東大寺二月堂は十一面観音様をご本尊とするお堂です。
【東大寺二月堂】
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修二会の映像を観たことがある方も多いと思います。
【修二会の様子(朝日新聞社)】
こちらは内陣に上がってお参りすることができます。
【東大寺二月堂からの眺め】
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奈良の景色を一望できる二月堂から、観音様は皆の安寧を願っておられるのだと感じます。
【東大寺二月堂の御詠歌】
「ありがたや ふしぎは一か二月堂 若狭の水を むかへたもふぞ 」
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南都では実に心地よい風を感じ、歴史を垣間見るお参りでした。

六波羅蜜寺~あの世とこの世の境界~

11月となると「涼しい」ではなく「寒い」という肌感覚になりました。季節は移り変わります。
あの世には行ったことがありませんので分かりませんが、誰もが死んだ後に行くことになるので実は身近な世界なのだと思っています。もしかすると、明日交通事故で死んでしまうかもしれない。こんな儚い世界に私たちは住んでいるのですから。
【本堂の扁額】
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昔の京都の人々はあの世とこの世の境目を御所から見て巽[辰巳]の方角(南東の方角)に定めていました。実際、御所から見て南東方角には西国観音霊場の第10番から第17番までの寺院がかたまっています。その中で第17番札所の六波羅蜜寺が今回お参りしたお寺です。17は33の丁度真ん中で、六波羅蜜寺は西国観音霊場の中央札所と言えます。
【本堂】
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六波羅蜜寺は浄土教の先駆者である空也上人が開基したと伝わるお寺です。空也上人は観音像を引きながら「南無阿弥陀仏」と唱えて京都中を廻られたそうです。平安時代、仏様は民衆にとってどれほど近い距離だったのでしょうか?想像するに民衆と仏様の距離は今より遠かったと思います。仏様はどちらかと言えば天皇や貴族など身分の高い人々の帰依によって日本に広まっていたからです。
空也上人は貴賤を問わず念仏を弘められました。平安時代、平安京造営がある程度落ち着いた時代にやっと民衆に仏様が近くなってきたのだと想像できます。そして空也上人があの世とこの世の境目である、都の巽に六波羅蜜寺を開基されたのも多くの民衆を救うためだったと想像できます。六波羅蜜寺は当初名前が「西光寺」と言いました。西方浄土から阿弥陀様がお越しになるということが寺院名にも如実に表れています。
【山門前の観音像(ご本尊様の写し)】
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本堂で観音様にお参りをした後、本堂横に在る地蔵堂へ行きました。こちらには銭洗弁財天様が居られます。
【地蔵堂】
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鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社の銭洗弁財天様が有名ですが、西国には六波羅蜜寺の銭洗弁財天様が居られます。
鎌倉の弁財天様はお金を洗って、そのお金を使わねばなりませんが、六波羅蜜寺の弁財天様では洗ったお金を動かさずに自宅の賢所で保管しなければなりません。弁天様は川の神様ですので、川の流れのイメージに起因して龍や蛇と結びつきました。その為、干支の辰や巳と結びついているのです。弁財天様には巳の日にお参りするとご利益がある(お金が増える)と言われているのもそうした理由からです。都の巽[辰巳]に六波羅蜜寺があり、弁財天様が居られるのも実はこうした意味があるのだという事が分かります。
滝などの水が激しく流れるところに不動明王さまが居られるように、都からの方角に応じて神仏が居られるのは恐らく易学が深く影響していたのだと思いを馳せながら、今回は六波羅蜜寺をお参りしました。
【六波羅蜜寺の御詠歌】
「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」
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