12月 | 2017 | 春は花

安田念珠店 オフィシャルサイト

春は花

時の流れ

いよいよ一年が終わりを迎えます。私は個人的に、来年1月に「締め切り」を迎えるものがあり、それに全ての時間を費やしているのが現状です。思い通りに進まない一方で時間が刻々と過ぎて行き、「時間が止まればいいのになぁ。」と思う日々です。
「時間」――これも不思議なものです。人間が作り出したものではありますが、人間がこれに最も拘束されています。
「山中無暦日」という言葉があります。「山中さんちゅう暦日れきじつ無し」と読み下されます。この言葉、「山の中の生活にはカレンダーはないので、月日が経つのを忘れている。」という意味に解釈されるのが一般的です。
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(上の画像の書は京都・正法山妙心寺管長・江松軒こうしょうけん 嶺興嶽老大師様が揮毫なさったものです。)
山の中に住んで、たった一人で自給自足の生活をすれば、確かにカレンダーも要らないのかもしれません。でも現実にはそんなことは難しいですよね。この言葉の大意は「時間に囚われてはいけない」ということを言っているのです。〔ちなみに、この言葉に接すると「何だか特殊相対性理論に通じる話だなぁ」と思ってしまいます。〕
現代社会は気忙しく、皆様方も時間に追われる生活をなさっておられると思います。そんな中で落ち着いて自分を見つめ直すのが大事だとこの言葉は教えてくれているのです。
そうは言っても、人間は時間に囚われてしまう生き物です。時間の流れには逆らえませんが、年末年始の落ち着いた瞬間に自分本来のあり方を見つめ直す機会を持たれても良いかもしれません


2017年は第14回から今回の第63回まで計50回の記事を更新して参りました。私の思うままに書いてきましたので、訳の分からない記事もあったかと思います。毎回色々なご感想を届けて下さって感謝しております。今後共、ご愛顧いただければと存じます。
皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

念珠の形(浄土真宗・その2)

弊社のホームページにはいろいろなページがあります。このブログ「春は花」もその1つです。
不定期ではありますが、弊社社長がコラムを更新しております。一覧はこちらをご覧ください。その第7回に「地獄のそうべえ」というコラムを書いております。そのコラムの冒頭はこんな感じです。
ある小学生がいました。秋の学芸会で「地獄のそうべえ」という劇をクラスでやることになりました。その筋は、そうべえという曲芸師が綱渡りを失敗して地獄へ落ち、様々な試練の後、地獄から生還するというものです。小学生が演じるにふさわしいコミカルで微笑ましい劇です。
この劇をクラスでやるとなった時、担任の先生がクラスの生徒に「今度の劇は地獄を題材にしたものです。みんな来週までに地獄というものはどんな所か、お父さんお母さんそれから誰でもいいから知っている人に尋ねて調べて来なさい。」と言いました。 彼は家に帰って、誰に尋ねればいいだろうかと思案しました。そして、以前、キャンプでお世話になったお坊さんを思い出し、その人を尋ねました。数年ぶりの再会であったにもかかわらず、そのお坊さんは、彼のことをよく覚えていましたし、彼の地獄についての問いに実に親切に答えてくれました。
(中略)
帰り道、家へと向かう自分の足が速くなっているのに気が付きました。「地獄なんか実際にはないのだ」と思いながらも、「悪い事をしたら地獄で怖い目に遭うのか」と思わざるをえませんでした。家へ帰った彼は、お坊さんから聞いたままを興奮した面持ちで母親に話しました。「お母さん、地獄ってこんなに怖いところらしいよ」と。たった今、地獄を自分の目で見てきた様に話しました。
この話には続きがあります。この小学生は「何とか地獄に堕ちないようにしたい!」と強く思い、その方法を聞くためにその夜にお祖父さん(母方)に電話を掛けるのです。そして、「どうすれば地獄に堕ちないの?」と尋ねます。お祖父さんは「あなたのお家のお仏壇の前で『南無阿弥陀仏』と何度も唱えれば良いんですよ。」と答えてくれました。次の日、学校が終わってからお仏壇の前に行くと、お祖母さん(父方)が「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…………」と唱えていました。


この話、親鸞聖人の御教えを理解するために役に立ちます。親鸞聖人の御教えは要約すると「信じる心を持つ人は助かります」というものです。ここでいう「助かります」とは「極楽に行けます」と解釈しても差し支えないと思います。
【一般に多くの方が携えられる「略式念珠」】
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先週ご紹介した蓮如上人の『御文章』にもある通り、「信心(信じる心)」を持つ人は念珠を携えて念仏を唱えているのです。念珠には値段の高低はありますが、値段の高低に関わらず、いつも携えて頂くことが弊社の本望です
「ある小学生」の祖父母たち4人は今や泉下の客となってしまいました。皆、お念珠を携えて念仏を唱えていたので、今ごろ極楽へ行っていることでしょう。

念珠の形(浄土真宗・その1)

私は幼いころから母の実家に行くことが度々ありました。母方の祖父母は篤信者であり、いつも朝夕のお勤めをしておりました。そして孫である私が訪れると決まってお寺様(浄土真宗本願寺派)へお参りし、ご住職様にお経をあげてもらっていました。
ご住職様の読経を何となく聞いていた私ですが、漢文調のお経が続いた後にいつも決まって文語調のお経を誦んで下さっていました。「あれは何というお経だろうか?」と祖父に尋ねると、祖父は「蓮如上人が分かり易く御教えを説いてくれたありがたいお経ですよ。」と教えてくれました。当時小学校1年生だった私は「ふ~ん。」と言ってそれ以上調べることはありませんでした。
母方の祖父母がうつそみの人でなくなってしまった時、「そういえば、おじいちゃんが教えてくれたお経は何だったんだろうか?」と思い、調べてみました。それは「御文章(ごぶんしょう)」(もしくは「御文(おふみ)」)と呼ばれているものでした。
御文章は全体で5帖あり、1帖に約15通の蓮如上人のお手紙がまとめられています。私がいつも耳にしていたのは「第5帖の10 聖人一流の章」でした。読経の際に独特の節があって、印象に残る御経です。
その「御文章」の中に「第2帖の5 珠数の章」があります。少し長いですが全文引用してみます。
【原文】
そもそも、この三四年のあひだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。それにはさはりあるべからず。まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。
これによりて真実信心を獲得したる人は、かならず口にも出し、また色にもそのすがたはみゆるなり。しかれば当時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、身にはおぼえざるがゆゑに、いつも信心のひととほりをば、われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり。
この分にては自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。かくのごときの心中にては今度の報土往生も不可なり。あらあら笑止や。ただふかくこころをしづめて思案あるべし。
まことにもつて人間は出づる息は入るをまたぬならひなり。あひかまへて油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六、二月十六日早朝ににはかに筆を染めをはりぬのみ。]


【意味】
そもそも、ここ3~4年の間において、本願寺の檀信徒の様子を見及ぶところでは、本当に阿弥陀如来の本願力を信じて疑いもない様子がありません。その理由は念珠の1連をも持っていない人が居ることであります。それ程に仏様を手掴みになさっているのです。(〔訳注〕仏様を軽く見ているのです。)親鸞聖人は、「念珠を捨てて仏様を拝みなさい」と仰られたことは決してありません。そうでありながらも、念珠を持たなくても、極楽浄土へ往生するためにはただただ阿弥陀如来の本願力を信じることのみであります。それについて妨げるものはありません。先ずはともあれ、優れた僧侶である人は袈裟を掛けて、念珠を持っても差し支えありません。
私(蓮如上人)が考えるところでは、真実の信心を確かに得た人は、必ずや口にも表れ、また振る舞いにもその姿が見えてくるものなのです。ですから、現在では真実の信心を見事に得た人は稀であると思うのです。どうしてそのようになるのかと言えば、阿弥陀如来の本願は私たちに相応したものであるが、その尊さの程度を各自が体得しないからなのです。信心について一通りのことを心得ているというような顔をして、何を聴いても、「あぁ、そのことか。(〔訳注〕それなら知っているさ。)」とばかり思って、耳にもしっかりと入っておらず、ただ人の真似事ばかりしている様子に見えます。
この様子ではご自身の極楽往生も現在ではどうも危ういだろうと思います。ましてや、檀信徒や同朋に仏の教えを説き、信心を勧めるなどということは到底できることではないでしょう。このような心持ちでは今の生涯を終えた時に極楽往生することはできないでしょう。あぁ、なんて残念なことでしょう。ただ深く心を穏やかにして考えてみて下さい。
本当に人間というものは、吐いた息を吸うことが待てない性分であるほど儚い存在なのです。必ず心構えをして油断せずに仏法を心に入れて、阿弥陀如来による救済の信仰を心に確立すべきなのです。 あなかしこ、あなかしこ。
文明6年(1474年) 2月16日、朝早くに一気に書きました。
浄土真宗では、念珠を念仏の数を数える道具として用いることはありません。念仏を唱えた数が大切なのではなく、その「信心」が大切だからなのです。ですから、実際上は念珠を持たなくとも念仏を唱えることができます。しかしながら、蓮如上人が御文章の中で説かれている通り、念珠を持っていると持っていないとでは振る舞いや阿弥陀様の救済の程度も変わってくるのです。
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蓮如上人は裏側の房が長いのを巻き上げて「蓮如結び」と呼ばれる結び方を考えられました。(上の画像をご覧ください。)
「蓮如結び」は蝶のように見える結び方です。これは私の想像ですが、この結び方は「阿弥陀様と私たちを繋いでくれる蝶」を模しているのではないか、と考えています。
蓮如上人が仰ったように、気持ちを整えて阿弥陀様と向き合うことが大切なのだと、御文章を読んで痛感しました。

みな泥を冠った仏である

明日、12月8日はお釈迦様が悟りをひらいたとされる日です。それに因んで「成道会(じょうどうえ)」という法要が仏教寺院では行われます。禅宗の修行道場では12月1日から12月8日まで1年で一番厳しい臘八大攝心(ろうはちおおぜっしん/ろうはつだいせっしん)が行われています。
毎年この時期になると「お釈迦さまは悟りをひらかれた」というお話を聞き、お釈迦さまはすごかったのだなぁと思うのですが、皆様はお釈迦さまがなぜ悟りをひらけたのだと思われますか? ただただすごいお方だった、という一点ではないと思います。勿論、たくさんの苦しい修行もなさったこともあると思います。
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(上の画像の書は、京都大原・魚山三千院門跡・堀沢祖門門主様がご揮毫なさり、千眞工藝謹製の「2018年 一隅を照らそう染筆日暦」に掲載されたものです。)
私は、上の画像の書「誰もが仏 泥をかむった佛さま」という言葉を最近はじめて目にし、何か納得するような気がしました。ここでいう「泥」とはすなわち「煩悩」のことです。つまり、上の画像の書が言っていることは「人は煩悩を持っているが既に仏(泥仏)なのだ」ということです。
お釈迦さまは私たちが冠っている泥を払いのけることができたのです。この泥を払い除けるには、自らが「泥仏」であることに”気づく”ことが何よりも大事なのです。お釈迦様が悟りをひらけることができたのは、この”気づき”があったからだと私は想像しました。
様々なことに”気づく”ことは本当に大切なのです。
”気づき”が大切なことを教えてくれる詩はこちらをご覧ください。
自らに可能性があることに気が付いて、自分の与えられた課題に一生懸命に取り組んでいく。老若男女誰もが実践できることであると感じました。

念珠の形(浄土宗・その2)

富士山が雪を被っていました。もう12月なのですね。
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さて、本日も浄土宗のお念珠の形の続きです。
先週もお話した通り、浄土宗では念仏を多く唱えることが重要なことです。京都には、「百万遍」として親しまれ、地名にもなっている知恩寺(ちおんじ)という浄土宗の寺院があります。昔、京都で疫病が流行った時に知恩寺の僧侶が念仏を百万遍、何日も唱え続けたことで疫病の流行が止んだという逸話があります。これによって「百万遍」と呼ばれるようになったそうです。
しかしながら、百万遍、つまり百万回も念仏を唱えたことをどうやって数えたのでしょうか?この逸話の場において、実際にどうやって念仏を唱えた回数を計測したのかは正確には不明ですが、恐らくお念珠を用いて数を数えておられたのではないかと思います。
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上の画像のお念珠は、浄土宗のお念珠(男性用)のお念珠です。このお念珠は、上部の輪に27個の主珠が、下部の輪に20個の主珠があり、弟子玉が左右に6個と10個あります。この1連で
27×20×6×10=32,400回
の念仏を唱えたことを数えることができます。ちなみに、女性用のお念珠では上部の輪の主珠が40個あります。計算すると、
27×40×6×10=64,800回
の念仏を唱えることができます。男性用の2倍も念仏を唱えることができます。
こうしたお念珠の形をとるのは、「念仏を唱える」ことが浄土宗の教えの根本であり、出家した者も在家の者もその別なく念仏を唱えることを求めたのが要因であると考えられます。
この念珠は「日課念珠(にっかねんじゅ)」と呼ばれます。「日課」とは「毎日することが定まった仕事」という意味です。すなわち、誰でも三万回(男性)か六万回(女性)の念仏を唱えることが毎日の仕事(課題)であると言われているのです。私自身も浄土宗の檀信徒でありますが、毎日三万回の念仏を唱えてはおりません。怠惰であるなと反省します。
ただ、毎日定められた課題だからと言って、負担に感じることなく、毎日一度でも良いから念仏を唱える。これがなによりも大事なのだと、浄土宗のお念珠から私は感じ取っております。

安田念珠店

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