念珠の形(浄土真宗・その1) | 春は花

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念珠の形(浄土真宗・その1)

私は幼いころから母の実家に行くことが度々ありました。母方の祖父母は篤信者であり、いつも朝夕のお勤めをしておりました。そして孫である私が訪れると決まってお寺様(浄土真宗本願寺派)へお参りし、ご住職様にお経をあげてもらっていました。
ご住職様の読経を何となく聞いていた私ですが、漢文調のお経が続いた後にいつも決まって文語調のお経を誦んで下さっていました。「あれは何というお経だろうか?」と祖父に尋ねると、祖父は「蓮如上人が分かり易く御教えを説いてくれたありがたいお経ですよ。」と教えてくれました。当時小学校1年生だった私は「ふ~ん。」と言ってそれ以上調べることはありませんでした。
母方の祖父母がうつそみの人でなくなってしまった時、「そういえば、おじいちゃんが教えてくれたお経は何だったんだろうか?」と思い、調べてみました。それは「御文章(ごぶんしょう)」(もしくは「御文(おふみ)」)と呼ばれているものでした。
御文章は全体で5帖あり、1帖に約15通の蓮如上人のお手紙がまとめられています。私がいつも耳にしていたのは「第5帖の10 聖人一流の章」でした。読経の際に独特の節があって、印象に残る御経です。
その「御文章」の中に「第2帖の5 珠数の章」があります。少し長いですが全文引用してみます。
【原文】
そもそも、この三四年のあひだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。それにはさはりあるべからず。まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。
これによりて真実信心を獲得したる人は、かならず口にも出し、また色にもそのすがたはみゆるなり。しかれば当時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、身にはおぼえざるがゆゑに、いつも信心のひととほりをば、われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり。
この分にては自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。かくのごときの心中にては今度の報土往生も不可なり。あらあら笑止や。ただふかくこころをしづめて思案あるべし。
まことにもつて人間は出づる息は入るをまたぬならひなり。あひかまへて油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六、二月十六日早朝ににはかに筆を染めをはりぬのみ。]


【意味】
そもそも、ここ3~4年の間において、本願寺の檀信徒の様子を見及ぶところでは、本当に阿弥陀如来の本願力を信じて疑いもない様子がありません。その理由は念珠の1連をも持っていない人が居ることであります。それ程に仏様を手掴みになさっているのです。(〔訳注〕仏様を軽く見ているのです。)親鸞聖人は、「念珠を捨てて仏様を拝みなさい」と仰られたことは決してありません。そうでありながらも、念珠を持たなくても、極楽浄土へ往生するためにはただただ阿弥陀如来の本願力を信じることのみであります。それについて妨げるものはありません。先ずはともあれ、優れた僧侶である人は袈裟を掛けて、念珠を持っても差し支えありません。
私(蓮如上人)が考えるところでは、真実の信心を確かに得た人は、必ずや口にも表れ、また振る舞いにもその姿が見えてくるものなのです。ですから、現在では真実の信心を見事に得た人は稀であると思うのです。どうしてそのようになるのかと言えば、阿弥陀如来の本願は私たちに相応したものであるが、その尊さの程度を各自が体得しないからなのです。信心について一通りのことを心得ているというような顔をして、何を聴いても、「あぁ、そのことか。(〔訳注〕それなら知っているさ。)」とばかり思って、耳にもしっかりと入っておらず、ただ人の真似事ばかりしている様子に見えます。
この様子ではご自身の極楽往生も現在ではどうも危ういだろうと思います。ましてや、檀信徒や同朋に仏の教えを説き、信心を勧めるなどということは到底できることではないでしょう。このような心持ちでは今の生涯を終えた時に極楽往生することはできないでしょう。あぁ、なんて残念なことでしょう。ただ深く心を穏やかにして考えてみて下さい。
本当に人間というものは、吐いた息を吸うことが待てない性分であるほど儚い存在なのです。必ず心構えをして油断せずに仏法を心に入れて、阿弥陀如来による救済の信仰を心に確立すべきなのです。 あなかしこ、あなかしこ。
文明6年(1474年) 2月16日、朝早くに一気に書きました。
浄土真宗では、念珠を念仏の数を数える道具として用いることはありません。念仏を唱えた数が大切なのではなく、その「信心」が大切だからなのです。ですから、実際上は念珠を持たなくとも念仏を唱えることができます。しかしながら、蓮如上人が御文章の中で説かれている通り、念珠を持っていると持っていないとでは振る舞いや阿弥陀様の救済の程度も変わってくるのです。
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蓮如上人は裏側の房が長いのを巻き上げて「蓮如結び」と呼ばれる結び方を考えられました。(上の画像をご覧ください。)
「蓮如結び」は蝶のように見える結び方です。これは私の想像ですが、この結び方は「阿弥陀様と私たちを繋いでくれる蝶」を模しているのではないか、と考えています。
蓮如上人が仰ったように、気持ちを整えて阿弥陀様と向き合うことが大切なのだと、御文章を読んで痛感しました。

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