「十代目の部屋」コラム16 ‐ 天和3年(1683年)創業の安田念珠店

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数珠の安田念珠店オフィシャルサイト TOP > 十代目社長のコラム > 第16回 仏教を考える(法華経 如来(にょらい)寿量品(じゅりょうぼん)の世界)

2016.10
木更津上空よりの赤富士

第16回 仏教を考える 法華経 如来(にょらい)寿量品(じゅりょうぼん)の世界
私の生業(なりわい)は念珠を作り、販売することです。若いころ、父の横に座り口伝で念珠の製法を教えられ、重要なところをノートに書き写しながら覚えました。よく、「二度は言わないからしっかりと覚えなさい。」と言われ緊張しながら覚えたものです。あれから三十数年も経ちます。今、私の作った荘厳念珠(寺院の儀式用念珠)をお客様が、満足げに買い求められる姿を目の当たりにしますと、職人として父を継ぐことが出来たと心から嬉しく思います。そして、私の生業を何代にも亘って支えてくれる「仏教とその信仰」というものに、ふと思いを巡らせてしまうのです。

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2016.10
木更津上空よりの赤富士

最近、書店の店頭に平積みされた本に、イスラエルの歴史学者 ユヴァル・ノア・ハラリの書いた「サピエンス全史」上・下(河出書房新社刊2016)があります。この本は、人類の歴史を今までと違った新たな視点で捉えた歴史書だと思います。その下巻に、仏教について次の記述があります。

『これまで論じてきた宗教はみな、重要な特徴を一つ共有している。どれも、神あるいはそれ以外の超自然的存在に対する信仰に焦点を当てているのだ。・・・紀元前1000年紀には、まったく新しい種類の宗教がアフロ・ユーラシア大陸中に広まり始めた。・・・これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。・・・最たる例が、自然法則を信奉する古代宗教のうち最も重要な仏教で、仏教は今なお、主要な宗教の一つであり続けている。・・・仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。』(P26・27) 

この著述は仏教の本質を見事に言い当てていると思います。仏教とは、つまり真理「法・ダルマ」に対する信仰であるということなのです。

ユヴァル・ノア・ハラリがいうように、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)は歴史上の人物であり神ではありません。この釈尊が何故、信仰の対象となるのでしょうか。これを、仏教学者 中村元はその著書「仏教語大辞典」(東京書籍)の中の「久遠實成」の項目の中で次のように述べています。

『真実の仏は久遠の昔に成仏している、の意。・・・歴史的人物としての釈尊が、実は久遠の昔に成仏していたということ。・・・久遠實成の思想は、釈迦仏の本体であるさとりの内容、すなわち法が永遠常在であることに基づくが、実際は釈尊に対する弟子たちの追慕心の高まりによって発生したものといえる。仏教は、本来真理(法)に対する信仰であり、釈尊は、自己なきあと、法にたよることを遺言したが、弟子たちは釈尊という人格を通して仏法を信奉していたので、釈尊なきあと、釈尊の残した法だけでは満足できず、彼の人格を追慕し、さらには釈尊に代わる仏を求めた。その結果、種々の仏が立てられたが、「法華経」に来て、それらが釈迦仏に帰一され、釈迦仏の永遠不滅が説かれるにいたった。』

私はこの項目を読んで、思わず仏教説話「(*)死んだ子を抱いて走る母(キサー・ゴータミー)」を思い出しました。釈尊という歴史上の人物は、他に例えようのない素晴らしい人物だったのでしょう。その人格や人間性があまりにも素晴らしかったので釈尊への思慕が時代を経ても残り、その寿命が永遠とされ、永遠の命を持つ釈尊を通して真理「法」が信仰されたのではないでしょうか。

さて、話は法華経に移ります。先にみた釈迦仏の永遠不滅つまり「久遠實成」は、法華経の第十六章(妙法蓮華経 如来寿量品第十六)に説かれています。この章は法華経の中でも特に重要と言われている章ですが、如来寿量品とは「仏のいのちの長さの章」という意味です。この章の内容を簡略に言えば、

『仏は常にいて、生滅を繰り返すものではないが、人々がそれに安心して真剣に法を求めなくなるので方便によって涅槃(ねはん)の姿をとり、渇仰させて精進させる。しかし、本当は何ものにも破られることのない常住のものである。』(前掲 中村元 佛教語大辞典 自我偈の項目)

というものです。この章の中には、古代インドにおける数量感覚の桁外れの遠大さや、法華七喩(ほっけしちゆ)の一つ「医子喩」などが著されています。私はこの如来寿量品を何度も繰り返し読んでいて、あることに気が付きました。それは、「恋慕(れんぼ)渇仰(かつごう)」という言葉が三度繰り返し出てくるということです。「恋慕」とは、仏に思いこがれることであり、「渇仰」とは、仏に会いたいと熱望することです。(前掲 仏教語大辞典)その最初は、長行(ちょうごう)(経論のうちで散文で書かれた文章)の部分に、『心に恋慕を懐き、佛を渇仰して』。次に()(経論のうち、仏の教えを詩句によって述べたもの)の部分に、『(ことごと)く皆恋慕を懐きて、渇仰の心を生ず』。そしてすぐに続けて偈の部分に『故に為に身を現ぜずして、(それ)をして渇仰を生ぜしむ 其の心の恋慕するに因りて、(すなわ)ち出でて為に法を説く』。この三度です。

法華経には「三請(さんしょう)」という言葉があります。これは釈尊が十大弟子の一人舎利弗(しゃりほつ)(シャーリプトラ)や弥勒菩薩(みろくぼさつ)の三度の請いに応えて法華経を説いたということを表す言葉(前掲 仏教語大辞典)ですが、三度繰り返し請うこの教えは非常に大切な教えであるということを表しています。つまり、三度に亘って繰り返し出てくる言葉は、この章の中で重要な意味を持つということであると、すなわち、この章は我々凡人に信仰する者の本来あるべき姿を語りかけているのではないだろうかと思うのです。

現在に生きる私たちが、永遠の存在である仏(釈尊)に会い教えを請うなら、心から釈尊に恋慕の情を懐き、釈尊に出会えることを渇仰しなければならないのでしょう。まるで、愛し合う恋人たちの様に。つまり、信仰とは現代に生きる私たちの思う以上に激しい気持ちの高まりが必要なのだということを、この経典は教えているのではないでしょうか。

念珠の修理の話です。
弊店では、念珠の修理を多くお預かりします。お客様の心が籠った大事な品物です。非常に神経を使い扱います。その中に、稀に念珠の珠が変形した修理品をお預かりすることがあります。木製品の珠ですが、本来球形の物が擦り減って球形を成さない物が念珠の形に繋がっているものです。念珠の形や使い方は宗派によって違います。激しく珠を擦り合わせることが信仰の証しであるとは限りませんが、多分、この念珠を使われている方は仏に恋慕の情を懐き、仏に会うことを渇仰して拝まれているのだろうということは想像に難くありません。
現在社会の中で、祈りという人間の存在の原点に寄り添う行為の周辺部にいる私は、「人の祈りには強弱があり、その強弱がその人の人生に少なからず影響を与えるのではないか。」と、念珠を触りながら、如来寿量品の世界を考えてしまうのです。

*「死んだわが子を抱いて走る母 キサー・ゴータミー」
サーヴァッティーという町で、死んだわが子を抱いて狂ったように歩き回っているキサー・ゴータミーという女性に町の人が近くの祇園精舎に居るブッダに相談するように忠告する。彼女は祇園精舎に赴き、ブッダにわが子が助かる方法を尋ねる。ブッダは、町をまわり一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらいなさいと教える。彼女は死んだわが子を抱えて、一軒一軒、死人の出たことのない家を探し求めた。しかし、死人の出たことのない家などどこにもなかった。そして、彼女はついに自分の子供の死をはっきりと受け止めるに至った。ブッダのもとに帰ったキサー・ゴータミーは諄々(じゅんじゅん)と諭され「人の死は逃れられないことなのだ」という諦念(ていねん)(あきらめの心)によって、次第に心が安らかになるのを覚えた。この後、キサー・ゴータミーはブッダのもとで尼僧となった。(岩波ジュニア新書「ブッダ物語」中村元、田辺和子著 岩波書店1998年より抜粋)・・・往時、釈尊がどのように人々を教え導いたかを示すエピソードとして興味深い仏教説話である。

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