春は花 | 念珠のこと、仏教のこと、京都のこと | Page 14

安田念珠店 オフィシャルサイト

春は花

心地よい風

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5月も下旬になり、一気に暑くなりました。そんな中でも外を歩いていて、時折吹く風を感じるのはとても心地良いものです。
風も季節によって呼び方が少し変わってきます。
春(3月末~4月):春風(しゅんぷう)
5月:薫風(くんぷう)
6月:涼風(りょうふう)
7月:松風(しょうふう)
それぞれに出典がありますが、今回は5月の「薫風」をご紹介しようと思います。この言葉の出典は「薫風自南来」です。
(右の画像の書は、鎌倉・巨福山建長寺管長・栢樹庵 吉田正道老師様の揮毫された書です。)
「薫風自南来」は「くんぷうじなんらい」とそのまま音読みする場合と、「くんぷうみなみよりきたる」と読み下す場合があります。この言葉には「殿閣微涼を生ず」という続きの語があります。
意味としては、「心地よい風(ほのかな香りのする風)が南から吹いてきて気持ちが良いなぁ。暑さの中、宮殿も心地よい涼しさに包まれた。」と字面からは読み取れます。
この言葉は昔の中国の皇帝〔唐の文宗(ぶんそう)〕が詠んだ詩が出典です。皇帝の住んでいた宮殿は南向きに建てられていましたから、南からの風を感じたのですね。実は、半年ほど前にご紹介した「南無」についてもこうした経緯から、南基点になったのではないか!?と私は考えております。
暑い日々、頭がボーっとしてしまう季節となりますが、そんな時に涼しい風を感じると本当に心地いいものです。物事に関しても、色々考えていると「煮詰まって」しまい、良い案が浮かばない時があります。そんな時、「ちょっと一息」を入れることも大切なのです。日本では昔から「三時のおやつ〔御八つ(=昔の時刻を表す言葉で、現在の午後2時~午後4時のことを指します。)〕」という習慣があります。これは「薫風自南来」に通じる習慣だと私は考えております。
宋の時代の詩人・蘇東坡(そとうば)が批判したことでこの言葉は有名になったそうです。(禅語としては、大慧禅師の大悟の語として知られています。)
実は蘇東坡という詩人は前回の「無一物中無尽蔵」にも関わりのある人物です。揮毫して下さった老師様も前回と同じく栢樹庵老師様です。弊社は京都で商いをしておりますが、鎌倉を陰ながら支える役目を仰せつかっております。(参考までにこちらをご覧ください。)
今回は季節の言葉をこれまでの記事と関連してご紹介致しました。

一生懸命生きて見えるものとは?

皆様方も近親者を亡くされたご経験をお持ちのことと思います。先年に私の祖母も鬼籍に入りました。
祖母の葬儀が終わった後、火葬場に行きました。祖母と本当に最後のお別れをした後、40分くらいで「再会」しました。
「再会」した際、私は何とも言えないあっけなさを感じました。人間はこんなにも儚いものなのか、と。
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本ブログでは「皆様の中の『佛』」や「無相の自己(formless self)」などとお話をして参りました。物理的な人間というものは非常にあっけないものなのだと思います。それは体の大きな人も体の小さな人も同じです。「人」を科学的に説明すれば、たんぱく質が……、水分が……、、、、、などと説明できるとは思います。でも、それでは「人」を説明できたとは言えないように思います。
「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」という言葉があります。似た言葉に「本来無一物」という言葉があります。これは、人とは「本来無一物」である、つまり、人とはもともと何もないものだ、という意味です。ただ、「何もない」のであれば、「塵も埃も積もらないではないではないか!」という批判もあります。一方で、「何もない」という境地を目指して一生懸命生きていくことは、これもまた大事なことなのです。(難しいです。。。)
「無一物中無尽蔵」とは、「何もないこと」の境地に達すればそこには大いなる世界が広がっている、というように私は解釈しています。「自らが気付いていない自分」を今を一生懸命に生きる事で見付け出せば、その先には大いなる世界が広がっているのではないか、私はそう思っています。
人間とは儚いものなのですが、今を一生懸命生きていけば大いなる世界に接することができる可能性を秘めているんですね。今を一生懸命生きる折々に、念珠がその傍らにあることが弊社の一番の喜びです。
本日は、祖母の命日が近付いていることもあり、個人的なお話をさせて頂きました。
(上と右の画像の書は、鎌倉・巨福山建長寺管長・栢樹庵 吉田正道老師様の揮毫された書です。)

念珠に表出する”もの”

5月も3分の1が過ぎました。少し更新が滞っており、申し訳ありませんでした。
ゴールデンウィークを皆さんはどのように過ごされたでしょうか?私は専ら自宅に居りました。一生懸命勉強をしていました、、、と言いたいところですが、少しアニメ鑑賞をしていました(笑)
観ていたのは『らんま1/2』というアニメです。『うる星やつら』などで有名な高橋留美子先生の作品で、ご存知の方も多いと思います。主人公の早乙女乱馬は 水を被ると女性に、お湯を被ると男性になる(元に戻る)体質です。乱馬の父は、水をかぶるとパンダに、お湯を被ると男性に(元に戻る)なります。
『らんま1/2』は、乱馬と許嫁のあかねがいろいろな敵と戦って仲を深めていくストーリーです。ドタバタ劇が面白いので大型連休にアニメを観てしまいました。最近では、新垣結衣さんが主演で実写化されましたので、そちらをご覧になった方も居られるかもしれません。
乱馬とあかねの関係は、女・乱馬と男・乱馬で当初少し違っているのですが、徐々にあかねは乱馬自身を好きになって行きます。
先日、本ブログで「念珠」の「珠」についてお話しした際に、「自らが気付いていない自分」と書きました。しかしながら、「これはどうもよく分からない。」とのご感想をいただきました。ありがとうございます。
『らんま1/2』を観ていて、女・乱馬、男・乱馬と外見が大きく異なる「乱馬その人」をあかねが好きになって行く過程が、「自らが気付いていない自分」を好きになって行く過程のように思えました。


「大きい・小さい」「長い・短い」などの視覚による情報で私たちは物事を判断してしまいがちです。そうした基準は客観的な基準ですが、人間はそんな客観的な基準だけで判断できません。どうしても感情というか、気持ちが表に出てきてしまいます。
自分自身の外見を取っ払って、「自分とは何か」を説明する。これが「自らが気付いていない自分」なのではないか、と考えています。
形や色や大きさなどの基準で説明できない自分、「無相の自己(formless self)」が長年使い続けた念珠に表出するのではないか、私はそのように考えています。

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東洋的無

著者:久松真一 
出版社:講談社
発売日: 1987/01/06
メディア: 文庫本
参考URL:http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061587700
(講談社BOOK倶楽部)



(6月5日追記)5月9日に本記事をアップいたしました際に埋め込んでおりました動画について、適切にアップされた動画ではありませんでした。ご指摘を頂戴いたしましたので、埋め込みを削除いたしました。お詫び旁御礼を申し上げます。今後共、ご指導のほどをよろしくお願い申し上げます。

明治神宮参拝

桜の季節が過ぎ去る前に、桜の写真を何枚か載せたいと思います。
【吉田山の桜】
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【待兼山の桜】
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【六甲台の桜】
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京阪神の三都を巡ってみました。
少し時期は遅いですが、私は「名残」が好きで、時期が遅れて咲く桜に趣を感じます。
では、今の都である東京の桜をご紹介します。
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先週、私は明治神宮に参拝致しました。最近刊行が続いています『昭和天皇実録』には明治神宮が鎮座された日(正確には鎮座は11月1日。)に次のような記述があります。
大正九年十一月二日火曜日
午前八時三十分御出門、御参内になる。九時、公式鹵簿にて宮城を御出門、明治神宮鎮座祭に天皇御名代として御参拝のため、官幣大社明治神宮に行啓される。明治神宮造営局副総裁床次竹二郎の先導にて神前に進まれ、本殿階下において御拝礼になり、宮司公爵一条実輝の奉仕により、玉串を供えられる。十時神宮を御発、再び御参内になり、天皇に復命される。ついで御内儀において皇后と御談話になり、十一時ニ十分宮城御出門、御帰還になる。
『昭和天皇実録 第二』(東京書籍、2015年)640ページ
ここでは、当時の皇太子 裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が明治神宮鎮座祭に御参拝された様子が記述されています。ちなみに、明治天皇と昭憲皇太后の御陵(お墓)は京都・伏見の桃山御陵です。
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1920年に鎮座されましたので、2020年、東京オリンピックの年が鎮座100年なんですね。今は鎮座100年に向けて本殿の改修工事がなされていました。
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明治天皇は和歌を沢山詠まれており、明治神宮ではおみくじではなく明治天皇の御製歌(大御心〔おおみごころ〕と呼ばれています。)が引けます。大正天皇は漢詩を、昭和天皇は和歌を沢山詠まれておられます。
私は和歌が好きで一首詠みました。
尋ね入る 代々木の杜に 櫻花舞ひ
大御心を 拝し祀らん
春は花――本ブログのタイトルも道元禅師の和歌から拝借しております。上の歌も道元禅師の有名な歌から一部拝借しております。和歌はなかなか良いものだと感じます。
今日は桜の写真をお届けしました。

「念珠」の「珠」について(その2)

今回も前回の続きです。念珠の「珠」について考えていきます。
前回、「珠」とは「皆様の中の佛が表出したもの」と書きました。ここで私が「佛」と書いたことに疑問を抱かれた方もおられるのではないでしょうか?
というのも、「佛」といえば「仏陀」や「お釈迦様(釈迦牟尼佛)」のことを想起される方が多いのでは、と考えるからです。
確かに、お釈迦様は悟りをひらかれて仏陀(=悟りの境地に達した者。覚者。)となられました。ですから、「佛」と聞いてお釈迦様を連想なさることは間違いではありません。ただ、「佛」とは唯一絶対のものではないのです。
以前ご紹介した禅画で有名な白隠禅師が坐禅和讃というものを残されています。全文はこちらをご覧ください。坐禅和讃は「衆生本来佛なり」から始まり、「この身即ち仏なり」で終わります。
「衆生本来佛なり」とは「みんな仏さま」と解釈すると分かりやすいです。
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そして、「この身即ち仏なり」とは、その通り「この身がそのまま仏さまなのです。」と解釈できます。
お釈迦さまは2000年以上前の方ですが、生まれた時から仏様ではありませんでした。悟りをひらかれて、多くの説法をなさいました。それがお経や仏典として遺っています。私の想像ですが、悟りをひらかれたお釈迦さまが多くの説法をなさったのは、誰でも仏となる可能性がある悟りをひらくことが可能!)と感じられたからではないでしょうか?
皆は気付いていないかもしれないけれど、実は皆の中には仏さまが居るのだよ。」――――そんな風に仰っておられるように私は感じ、想像しております。もちろん、私個人の勝手な想像ですので間違っているかもしれません(笑)
ですが、白隠禅師の坐禅和讃を読んでも、そういった意味合いが読み取れますので、あながち間違ってはいないかもしれないとも思います。


お念珠を長く使い続けて頂くと、皆様の中にある「佛」が表出する。自らが気付いていない自分をお念珠を通して気付くことができるかもしれない。これが弊社が「念珠」という言葉にこだわり続ける理由だと考えております。

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人はみな仏である――白隠禅師坐禅和讃・一転語

著者:朝比奈宗源 
出版社:春秋社
発売日: 2011/05/20
メディア: 単行本(ハードカバー)
参考URL:http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-14421-3/
(春秋社)

 

「念珠」の「珠」について(その1)

さてさて、しばらく間が開きましたが、「念珠」について1文字ずつ考えることの続きを綴ってみたいと思います。
今日は「珠」という字についてです。「珠」という字を普段あまり使うことはないと思います。恐らく最もよく知られた単語は「真珠」ではないでしょうか?
「珠」を辞書で引くと次のように書かれています。
1.(水中で産する)丸いたま。しんじゅ。また、美しく、立派なものを形容することば。
2.真珠のように丸いもの。
『goo国語辞書』より
ふむふむ。つまりは、美しいものを指した言葉なんですね。しかし、「珠」は単に「美しい」だけではありません。
仏教の数多ある経典の中に『妙法蓮華経』というお経があります。一般には『法華経』として知られています。「南無妙法蓮華経」と毎日唱えておられる方には馴染み深いお経です。
『法華経』の中にはお釈迦様が分かりやすく喩え話をして下さっている部分があります。「7つのたとえ話」として知られているかもしれませんが、今回はそのうちの一つ「衣裏珠(えりじゅ)のたとえ」をご紹介します。
とある貧乏な男が金持ちの親友の家で酔って眠ってしまいました。金持ちの親友は、用事があって男が眠っている間に出かけなければならなくなりました。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけました。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していました。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができました。
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(上の画像の書は、京都・花園妙心寺塔頭・霊雲院住職の曇華室 則竹秀南老師様の揮毫された書です。)
このたとえ話は、無上の宝(つまり「佛」)を身に付けているにも関わらず、それを自覚せずに低い悟りで満足しているお釈迦様の弟子達への反省と感謝の込めた喩え話です。
真珠は生きた貝(アコヤガイなどが有名です。)の中に異物が入り、それが核となってあの美しい珠が出来上がります。
人も同じです。中身に実は素晴らしいものを持っています。そして、その人それぞれの経験や環境によって、その人独自の「珠」が出来上がって行くのではないでしょうか?
弊社の扱うお念珠には価格が様々あります。もちろん、高いお念珠をご購入頂くことはありがたいことなのですが、どんな価格のお念珠であっても、長く使い続けて頂きたい――これこそが弊社の最大の願いであります。
それによって、皆様それぞれの「念(=今を精一杯生きる心)」が入り、美しい「珠(=皆様の中の佛が表出したもの)」となる。これはお金では買えない、かけがえのない価値だと私は考えております。
今回は、「法華経」を手がかりに「珠」について考えてみました。「珠」については次回も取り上げてみたいと思います。

画でみる仏教

「日本の文化」を象徴するものとしては、アニメがあります。手塚治虫作品にジブリ作品、最近では『君の名は』や『この世界の片隅で』などもあります。
「日本最初のマンガ」と呼ばれるのは、京都・栂尾山高山寺(とがのおさん こうさんじ)の「鳥獣人物戯画」です。正確には分かりませんが、鎌倉時代の作品とのことですから、おおよそ800年ほど前のものなのですね。
そんな前から、日本では「絵」が描かれていました。そして「絵」は仏教の布教のために使われたのです!
その代表的なものが「禅画」と呼ばれるものです。昨年は臨済禅師1150年遠諱、白隠禅師250年遠諱を記念して京都と東京の博物館で展覧会が開かれました。実は弊社も、昨年の本店改装前にはずっと禅画を本店に掲げておりました。
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上の画像のものがその禅画です。「布袋解開」と呼ばれています。弊社が掲げていました画は、もちろん複写された画ではありますが、白隠禅師 の描いた布袋さんです。布袋さんが開いた袋から「壽」という字が読み取れるかと思います。この「壽」という字は「ことぶき」とも読めますが、「いのちながし」とも読めます。「いのちながし」とは、『論語』に出てくる「仁者壽(じんじゃ、いのちながし)」が出典です。「いのちながし」とは「長生きをする」という意味ですから、「ことぶき」でも「いのちながし」でも招福の意味があるように私は感じております。
私自身、何となくこの禅画を眺めてきたのですが、最近になってこの画を分かりやすく解説して下さった本が出版されました。『画題でみる禅画入門――白隠・仙厓を中心に』という本です。(詳細は本記事の最後をご覧下さい。)
茶の湯の床の間には最初、詩画軸(しがじく)が掛けられたと言われています。現存する最古のものは、大阪・藤田美術館所蔵の「柴門新月図(さいもんしんげつず)」〔国宝〕です。こちらをご覧いただければお分かりの通り、水墨画の上に文字が沢山書いてあり、十分な知識がないと太刀打ちできそうにないものですね。
その後、佗茶(わびちゃ)を大成した千利休が「圜悟(えんご)の墨蹟 」を大切にしたことから、茶の湯では禅僧の墨蹟が重用されるようになったのです。
白隠禅師は布教の為に達磨、布袋、釈迦などの画を描きました。約一万点にも上る禅画がある白隠禅師ですが、年齢を重ねることに画にも変化が生じているそうです。(例えば、本書45~50頁参照。)いろいろな発見がある本です。
いろんなことを書きましたが、何よりも面白い!とか可愛い!などと思うことに禅画は魅力があります。それがきっかけとなり、仏教への興味が湧いていくかもしれません。
この本には白隠禅師だけでなく、禅画の雄である仙厓和尚についての解説もありますから、是非この本をお手に取られることをお薦め致します。
本日は禅画を題材にお話をしてみました。

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画題でみる禅画入門――白隠・仙厓を中心に

著者:浅井京子 
出版社:淡交社
発売日: 2017/03/21
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL:画題でみる禅画入門
(淡交社)

 

神様の使い

街を歩いておりますと、犬を散歩しておられる方に遭遇することがあります。先日、私は緑の豊かな土地へ赴きましたが、そこで牛や豚などいろいろな動物を間近に見ることができました。この世は、人と動物とが共生しているのですね。
先週ご紹介した神使(しんし)という概念は、これまでの本ブログの中でも既に登場しておりました。先週の宮島・厳島神社における「鹿」、そして伏見稲荷大社における「狐」です。
「神使」という名の通り、神様の使者ですからこれは神道の概念です。しかしながら、仏教寺院の中に神使が居るお寺様がございます。それは、奈良県の生駒にあります信貴山(しぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)です。
昨年最後の本ブログの記事で、仏教が日本に伝来した当初排斥された例として、聖徳太子が皇子の時代に起きた蘇我氏物部氏争いをご紹介しましたが、信貴山は、伝承によると、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れた場であり、毘沙門天の加護によって物部氏に勝利したため、戦いの後に毘沙門天を本尊に聖徳太子がお寺を開基したと言われています。朝護孫子寺様のご本尊はそれ故に毘沙門天様です。
この「寅の年、寅の日、寅の刻」というのは、以前ご紹介した年・月・日・時間の十二支のことです。例えば、本日2017年3月28日は酉の年、卯の月、寅の日です。(今回の記事は寅の日に合わせて更新したかったのです!)
こういった経緯から、朝護孫子寺様では仏教寺院ではあるものの寅が守り神として祀られています。
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日本の神話だけでなく、ギリシア神話でも動物が神の意思を伝えることは多々ありますが、仏教寺院での神使は非常に珍しい存在です。これが日本古来の「暦(こよみ)」(十干十二支を年・月・日・時間に組み込んだもの。このすべての組み合わせが一周する〔かえ る〕ことを還暦といいます。)に由来するものであるというのは、仏教がその伝来当初から日本の文化と密接に関わっていた証左ではないでしょうか?
今回は、神使と干支の関係について考えてみました。

宮島参詣

本ブログは「春は花」という名ですが、春の花と言えば桜ですね。昨日、私は清浄華院様へお詣りに参りました。春分の日、つまり3月20日に桜が咲いておりました。この桜は「蜂須賀桜」というそうです。詳しくは清浄華院様のホームページをご覧ください。
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さて、この1か月ほど、縁あって私は全国のお寺様にお詣りをさせて頂いております。本日はそのうちの1つをご紹介させていただきます。
日本三景」というと、松島(宮城県)、天橋立(京都府)、そして宮島(広島県)の3つのことを指します。今回ご紹介するのは宮島です。
【海から臨む鳥居】
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【宮島から臨む鳥居】
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宮島というと、イメージは厳島神社、牡蠣(毎年2月の「宮島かき祭り」が有名ですよね!)といったところでしょうか?厳島神社は「海に浮かぶ神社」として世界的に有名で、UNESCOの世界文化遺産にも登録されています。昨年のG7外相会議でも出席した各国外相がここに赴きました。(詳細はこちら。)
宮島(正式名称は厳島)には、厳島神社だけでなく、仏教寺院もあります。大聖院というお寺で、このお寺の開基(お寺を開いた僧侶)は、何とあの弘法大師・空海様なのです!(伝承によるもので、記録はなく真偽は不明です。)
【仁王門】
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【御成門】
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【御成門から鳥居を臨む】
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【勅願堂】
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明治以前は、仏教と神道は習合していましたから、厳島神社と大聖院が別のものというわけではなく、一体のものとして、島全体が信仰の対象となっていたのです。
宮島を歩くと、鹿があちらこちらに居ります。これは鹿が神使(しんし)であることに由来します。この神使という考え方は、神道と仏教を超えて様々なところで見て取れます。次回は、鹿ではなく別の生き物を神使とするお寺様をご紹介することにいたします。
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本日は、春の訪れをお知らせしつつ、宮島参詣をご紹介しました。

お彼岸にできること

もうすぐ春分を迎えます。本格的な春なのですね。
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さて、昨日3月17日は「彼岸入り」でした。春分の日(3月20日)を中日とし、7日間を「彼岸」と言います。従って、「彼岸明け」は3月23日となります。
「彼岸」という言葉は、仏教用語「波羅蜜」に由縁する言葉らしいのです。「波羅蜜」というと、六波羅蜜寺を連想される方や、「摩訶般若波羅蜜多心経」(通称:般若心経)にも入っているなぁ、と思われる方もおいでになると思います。では、この「波羅蜜」とは何なのでしょうか?
これを非常に分かり易く解説された文章の一部がネット上に公開されています。
こちらをご覧ください。→Click here
これは、「天台宗 一隅を照らす運動」の会報『きらめき』45号(2016年7月発行)に掲載された姫路市・書冩山圓教寺長吏 大樹孝啓探題様のご寄稿の文章です。ここに掲載されている書を抜き出してみると以下の通りです。
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六行(ろくぎょう) 在家の菩薩道

布施(ふせ) 人を大事に自分は後に
持戒(じかい) 自分で自分を戒める
忍辱(にんにく) 欲心に耐える強い心
精進(しょうじん) 真剣に続ける努力
禅定(ぜんじょう) 心も身体も静かに瞑想
智慧(ちえ) 慈悲深い正しい考え
(「六行」とは「六度万行」の略であり、「六波羅蜜」と「六度万行」とは同じことを指します。)
非常に分かり易いです。何だか、これならできそうな気がします。う~ん、それでもよくよく見るとなかなか難しそうでもあります。
「波羅蜜」とは簡単に言うと、悟りの境地への徳目(項目)をお釈迦様がまとめて説いて下さったもの、なのです。「持戒」に関しては、前回ご紹介した内容があてはまります。
お彼岸はお墓参りをする期間と思われている方が大勢居られるように感じます。お墓参りをすることも絶対的に大事なことではあるのですが、今を生きている私たちが「菩薩」になることを考える期間でもある、と私は考えています。
お彼岸にお墓参りに行かれる方も居られることと思います。お墓参りに行かれる方は勿論、お仕事のためにお墓に赴くことのできない方々も、この1週間は「六行」を胸に抱かれてみるのも良いかもしれません。


※弊社は「一隅を照らす運動」に参加しております。詳しくはこちらのパンフレット(PDFファイルです)の10ページをご覧下さい。

安田念珠店

〒604-8076 京都市中京区御幸町通三条下ル海老屋町323

TEL:075-221-3735 FAX:075-221-3730

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受付時間:平日(月~金曜日)AM9:00~17:30まで