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春は花

Category Archives: 仏教

画でみる仏教

「日本の文化」を象徴するものとしては、アニメがあります。手塚治虫作品にジブリ作品、最近では『君の名は』や『この世界の片隅で』などもあります。
「日本最初のマンガ」と呼ばれるのは、京都・栂尾山高山寺(とがのおさん こうさんじ)の「鳥獣人物戯画」です。正確には分かりませんが、鎌倉時代の作品とのことですから、おおよそ800年ほど前のものなのですね。
そんな前から、日本では「絵」が描かれていました。そして「絵」は仏教の布教のために使われたのです!
その代表的なものが「禅画」と呼ばれるものです。昨年は臨済禅師1150年遠諱、白隠禅師250年遠諱を記念して京都と東京の博物館で展覧会が開かれました。実は弊社も、昨年の本店改装前にはずっと禅画を本店に掲げておりました。
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上の画像のものがその禅画です。「布袋解開」と呼ばれています。弊社が掲げていました画は、もちろん複写された画ではありますが、白隠禅師 の描いた布袋さんです。布袋さんが開いた袋から「壽」という字が読み取れるかと思います。この「壽」という字は「ことぶき」とも読めますが、「いのちながし」とも読めます。「いのちながし」とは、『論語』に出てくる「仁者壽(じんじゃ、いのちながし)」が出典です。「いのちながし」とは「長生きをする」という意味ですから、「ことぶき」でも「いのちながし」でも招福の意味があるように私は感じております。
私自身、何となくこの禅画を眺めてきたのですが、最近になってこの画を分かりやすく解説して下さった本が出版されました。『画題でみる禅画入門――白隠・仙厓を中心に』という本です。(詳細は本記事の最後をご覧下さい。)
茶の湯の床の間には最初、詩画軸(しがじく)が掛けられたと言われています。現存する最古のものは、大阪・藤田美術館所蔵の「柴門新月図(さいもんしんげつず)」〔国宝〕です。こちらをご覧いただければお分かりの通り、水墨画の上に文字が沢山書いてあり、十分な知識がないと太刀打ちできそうにないものですね。
その後、佗茶(わびちゃ)を大成した千利休が「圜悟(えんご)の墨蹟 」を大切にしたことから、茶の湯では禅僧の墨蹟が重用されるようになったのです。
白隠禅師は布教の為に達磨、布袋、釈迦などの画を描きました。約一万点にも上る禅画がある白隠禅師ですが、年齢を重ねることに画にも変化が生じているそうです。(例えば、本書45~50頁参照。)いろいろな発見がある本です。
いろんなことを書きましたが、何よりも面白い!とか可愛い!などと思うことに禅画は魅力があります。それがきっかけとなり、仏教への興味が湧いていくかもしれません。
この本には白隠禅師だけでなく、禅画の雄である仙厓和尚についての解説もありますから、是非この本をお手に取られることをお薦め致します。
本日は禅画を題材にお話をしてみました。

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画題でみる禅画入門――白隠・仙厓を中心に

著者:浅井京子 
出版社:淡交社
発売日: 2017/03/21
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL:画題でみる禅画入門
(淡交社)

 

神様の使い

街を歩いておりますと、犬を散歩しておられる方に遭遇することがあります。先日、私は緑の豊かな土地へ赴きましたが、そこで牛や豚などいろいろな動物を間近に見ることができました。この世は、人と動物とが共生しているのですね。
先週ご紹介した神使(しんし)という概念は、これまでの本ブログの中でも既に登場しておりました。先週の宮島・厳島神社における「鹿」、そして伏見稲荷大社における「狐」です。
「神使」という名の通り、神様の使者ですからこれは神道の概念です。しかしながら、仏教寺院の中に神使が居るお寺様がございます。それは、奈良県の生駒にあります信貴山(しぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)です。
昨年最後の本ブログの記事で、仏教が日本に伝来した当初排斥された例として、聖徳太子が皇子の時代に起きた蘇我氏物部氏争いをご紹介しましたが、信貴山は、伝承によると、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れた場であり、毘沙門天の加護によって物部氏に勝利したため、戦いの後に毘沙門天を本尊に聖徳太子がお寺を開基したと言われています。朝護孫子寺様のご本尊はそれ故に毘沙門天様です。
この「寅の年、寅の日、寅の刻」というのは、以前ご紹介した年・月・日・時間の十二支のことです。例えば、本日2017年3月28日は酉の年、卯の月、寅の日です。(今回の記事は寅の日に合わせて更新したかったのです!)
こういった経緯から、朝護孫子寺様では仏教寺院ではあるものの寅が守り神として祀られています。
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日本の神話だけでなく、ギリシア神話でも動物が神の意思を伝えることは多々ありますが、仏教寺院での神使は非常に珍しい存在です。これが日本古来の「暦(こよみ)」(十干十二支を年・月・日・時間に組み込んだもの。このすべての組み合わせが一周する〔かえ る〕ことを還暦といいます。)に由来するものであるというのは、仏教がその伝来当初から日本の文化と密接に関わっていた証左ではないでしょうか?
今回は、神使と干支の関係について考えてみました。

宮島参詣

本ブログは「春は花」という名ですが、春の花と言えば桜ですね。昨日、私は清浄華院様へお詣りに参りました。春分の日、つまり3月20日に桜が咲いておりました。この桜は「蜂須賀桜」というそうです。詳しくは清浄華院様のホームページをご覧ください。
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さて、この1か月ほど、縁あって私は全国のお寺様にお詣りをさせて頂いております。本日はそのうちの1つをご紹介させていただきます。
日本三景」というと、松島(宮城県)、天橋立(京都府)、そして宮島(広島県)の3つのことを指します。今回ご紹介するのは宮島です。
【海から臨む鳥居】
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【宮島から臨む鳥居】
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宮島というと、イメージは厳島神社、牡蠣(毎年2月の「宮島かき祭り」が有名ですよね!)といったところでしょうか?厳島神社は「海に浮かぶ神社」として世界的に有名で、UNESCOの世界文化遺産にも登録されています。昨年のG7外相会議でも出席した各国外相がここに赴きました。(詳細はこちら。)
宮島(正式名称は厳島)には、厳島神社だけでなく、仏教寺院もあります。大聖院というお寺で、このお寺の開基(お寺を開いた僧侶)は、何とあの弘法大師・空海様なのです!(伝承によるもので、記録はなく真偽は不明です。)
【仁王門】
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【御成門】
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【御成門から鳥居を臨む】
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【勅願堂】
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明治以前は、仏教と神道は習合していましたから、厳島神社と大聖院が別のものというわけではなく、一体のものとして、島全体が信仰の対象となっていたのです。
宮島を歩くと、鹿があちらこちらに居ります。これは鹿が神使(しんし)であることに由来します。この神使という考え方は、神道と仏教を超えて様々なところで見て取れます。次回は、鹿ではなく別の生き物を神使とするお寺様をご紹介することにいたします。
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本日は、春の訪れをお知らせしつつ、宮島参詣をご紹介しました。

お彼岸にできること

もうすぐ春分を迎えます。本格的な春なのですね。
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さて、昨日3月17日は「彼岸入り」でした。春分の日(3月20日)を中日とし、7日間を「彼岸」と言います。従って、「彼岸明け」は3月23日となります。
「彼岸」という言葉は、仏教用語「波羅蜜」に由縁する言葉らしいのです。「波羅蜜」というと、六波羅蜜寺を連想される方や、「摩訶般若波羅蜜多心経」(通称:般若心経)にも入っているなぁ、と思われる方もおいでになると思います。では、この「波羅蜜」とは何なのでしょうか?
これを非常に分かり易く解説された文章の一部がネット上に公開されています。
こちらをご覧ください。→Click here
これは、「天台宗 一隅を照らす運動」の会報『きらめき』45号(2016年7月発行)に掲載された姫路市・書冩山圓教寺長吏 大樹孝啓探題様のご寄稿の文章です。ここに掲載されている書を抜き出してみると以下の通りです。
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六行(ろくぎょう) 在家の菩薩道

布施(ふせ) 人を大事に自分は後に
持戒(じかい) 自分で自分を戒める
忍辱(にんにく) 欲心に耐える強い心
精進(しょうじん) 真剣に続ける努力
禅定(ぜんじょう) 心も身体も静かに瞑想
智慧(ちえ) 慈悲深い正しい考え
(「六行」とは「六度万行」の略であり、「六波羅蜜」と「六度万行」とは同じことを指します。)
非常に分かり易いです。何だか、これならできそうな気がします。う~ん、それでもよくよく見るとなかなか難しそうでもあります。
「波羅蜜」とは簡単に言うと、悟りの境地への徳目(項目)をお釈迦様がまとめて説いて下さったもの、なのです。「持戒」に関しては、前回ご紹介した内容があてはまります。
お彼岸はお墓参りをする期間と思われている方が大勢居られるように感じます。お墓参りをすることも絶対的に大事なことではあるのですが、今を生きている私たちが「菩薩」になることを考える期間でもある、と私は考えています。
お彼岸にお墓参りに行かれる方も居られることと思います。お墓参りに行かれる方は勿論、お仕事のためにお墓に赴くことのできない方々も、この1週間は「六行」を胸に抱かれてみるのも良いかもしれません。


※弊社は「一隅を照らす運動」に参加しております。詳しくはこちらのパンフレット(PDFファイルです)の10ページをご覧下さい。

慈しむ心

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最近の生活にはスマートフォンやタブレット端末が不可欠になっていますよね。私はどちらも持っておりませんが、とはいえパソコンに携帯電話などの電気製品は日々の生活に欠かせないものとなっています。
明日は東日本大震災から6年(7回忌)です。自然の恐ろしさを思い知った天災でしたが、東日本大震災はそれだけに止まりませんでした。私たちの生活に欠かせない「電気」とどう向き合うのかを真剣に考えねばならない契機となりました。
お釈迦様の教えに「五戒」というものがあります。
一、不殺生:生き物の命をあやめないように
二、不偸盗:人様の物を盗まないように
三、不邪淫:淫らな行いを慎むように
四、不妄語:うそ偽りを言わないように
五、不飲酒:お酒を飲まないように
の5つですが、「あれをするな、これをするな」というものではないのです。
一から四は「相手を傷つけないように」との教え、五は「お酒を飲んで相手を不愉快にさせるようなことがないよう、相手を思いやりなさい」との教えです。
このお話は、鎌倉・瑞鹿山円覚寺管長 横田南嶺老師様の法話集『戒のこころ』(鴻盟社:発行、非売品)に掲載されたお話です。
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会ったことのない人であっても、私たちは衣食住すべてのことで誰かに支えられています。その誰かのことを思いやる(慈しむ)機会が毎年の3.11なのではないか、と私は考えています。過去のこと、遠い土地のこと、などと思わずに私たちの生活を支える誰かを思いやる(慈しむ)気持ちを育めれば良いと願っています。

「念珠」の「念」について(その2)

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袖振り合うも他生の縁」という故事があります。故事ことわざ辞典によると、「知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。」との意味であると書かれています。現代のイメージで言うと、電車で偶然に隣の席に座るのも因縁によるもの、というところでしょうか。
人との出逢いだけではなく、物との出逢いにも不思議なものがあります。私は古本を購入することが多いのですが、そこに予期せぬ書き込みがあって驚くことがあります。
前回ご紹介した横田南嶺老大師様のご著書にたびたびご登場なさる坂村真民さかむらしんみん 先生(1909年-2006年)という仏教詩人が居られます。坂村先生の詩に興味を持った私は全集を購入してみることにしました。つい昨年のことです。購入してビックリ!全集第七巻の見開きに坂村先生直筆のサインがあったのです!!
(右の画像をご覧ください。)
そこには「念に生きる」と書かれていました。はて、どういう意味なのか?
坂村先生の詩の中には「念」という語が入った詩が数多くありますが、ここではその名も「念」という詩を引用してみます。


花が咲くのも念
鳥が鳴くのも念
宇宙が回転するのも念
太陽が出現するのも念
だからわたしは
手を合わせて見
手を合わせて聞き
手を合わせて拝むのだ

坂村真民『坂村真民全詩集〔第七巻〕』(大東出版社、2001年)57頁
さてさて、「念=今を感謝する心」という前回お示しした私の解釈はこの詩にうまく当てはまっているでしょうか?
私はこの「念」という詩を(自分勝手に)解釈してみました。
花は咲くことに今この瞬間一生懸命、鳥も鳴くことに今この瞬間一生懸命、宇宙だって、太陽だってそう。だから、私たち人間も手を合わせて、心を落ち着かせ、今を一生懸命に生きるのだ。
ですから、「念に生きる」とは「今を一生懸命に生きる」ということなのではないか、と私は考えています。
未来のことが心配になるのが世の常ですが、まずは“今”を一生懸命に生きないと“未来”はやって来ません。
何より大切なのは今を一生懸命に生きること。当然のことのようで、実はこれが一番難しいことなのかもしれません。
「念」とは何か。私は「今を感謝する心」、そして「今を一生懸命に生きること」である、と考えています。

「念珠」の「念」について(その1)

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先週は阪神淡路大震災アメリカの新大統領就任の2つの話題から「祈り」を考えてみました。私自身の「祈り」に対する考え方を開陳した上で、今週からは「念珠」について、1文字ずつ考えてみたいと思います。
(弊社がなぜ「念珠」というのかについては、こちらをご覧下さい。)


今日のテーマは「念」です。
「念」を辞書で引くと、仏教用語であることが分かります。
〔仏教用語〕(梵語smṛti)心の働きの一つ。物事をしっかりと記憶すること。また一念というときは時間の単位で、一般に非常に短い時間をいい、十念などというときは、仏教の瞑想の一方法をいう。
『ブリタニカ国際大百科事典 Quick Search Version』(ブリタニカ・ジャパン、2008年1月版)
分かったような、分からないような。。。
私はあまりよく分からなかったので、もう少し調べてみました。
お経の中で非常に短いものに『延命十句観音経』というお経があります。このお経に分かりやすい解説が付された書籍があります。『祈りの延命十句観音経』という書籍で、著者は鎌倉・瑞鹿山円覚寺管長 横田南嶺老大師様です。
(右の画像は千眞工藝謹製の「2016年 日本の心 墨蹟日暦」に掲載された横田南嶺老大師様御寫経のものです。)
この書籍の「念念従心起」の節から引用してみます。
生きる事は息をすること、食べること、出すこと、眠ることにほかなりません。そのことに心をこめることです。
〔中略〕
心が外に向かうのを迷いといい、自分のうちに向けて見るのを悟りと古人は言いました。今一度、こうして見たり聞いたり、食べたり感じたりしているこのものは何か、立ち止まってみたら如何でしょうか。
心あればこそ、いのちあればこそ、ものを見、耳で聞き、舌で味わい、あれこれ思うことも出来ます。その心こそ、そのいのちこそ仏さま、かけがえのない尊いものです。
このいのち、心の貴さに気がつけば、必ずこれは自分ばかりでは無い、まわりの人もみなこのいのちを生きている。人だけではない、庭の草も花も、鳥や獣達も皆この心をもって生きている。この心に自ずと手が合わされます。生きていのちのあること、これほどすばらしいことはありません。
〔中略〕
みなひとりひとり仏心をもって生まれてきている、この仏心の貴さに目ざめることにほかなりません。みな仏心をもった仏さまなのです。

横田南嶺『祈りの延命十句観音経』(春秋社、2014年)122頁~125頁
引用の都合で、省略してしまいましたが、是非ともこの書籍を手に取ってお読みになってください。
この文章(書籍)から、「念」とは「ひとりひとりが今を感謝する心」なのではないか、と私は考えています。
以前、毎日生きていることが膨大な偶然の上にあるのだ、ということを書きましたが、今を生きていることに感謝する、この心こそが「念」なのではないか、と思うのです。
今日は、『延命十句観音経』を手掛かりに、「念」について考えてみました。また次回も「念」について考えてみたいと思います。

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祈りの延命十句観音経

著者:横田南嶺 
出版社:春秋社
発売日: 2014/03/11
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL1:http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-14426-8/
(春秋社)
参考URL2:2014年3月10日 新刊「祈りの延命十句観音経」
(居士林だより|円覚寺)

 

阪神淡路大震災の日に

本日は阪神淡路大震災から22年の日です。
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昨年2016年の熊本地震、2011年の東日本大震災、2004年の新潟県中越地震、、、20年以内に限っても大地震は数多く発生しています。
地震を予知できるようになれば被害も小さくできるかもしれません。ただ、先日の大雪も降ることが事前に分かっていましたけれど、多少の混乱がありました。ですから同じように、地震を予知できたとしてもやはり被害をゼロにすることは難しいのかもしれません。(もちろん、気象や地震による被害を減らそうと日夜研究されて居られる方々がおいでになり、そうした方々のご尽力で少しでも天災の被害を小さくできればと私は願っております。)
こう考えると、やはり「祈る」しかないのでしょうか?「祈り」は効果が見えにくいものです。祈ったからといって、即座に願いが叶うとは限りません。では、どうすれば良いのでしょうか?
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この問いに対する答えは分かりません。それでも私は、普段から祈ることが大切だと考えています。祈りを始めるきっかけは人それぞれですが、毎日手を合わせる習慣を作ることが、大変な状況の時に生きている私達を支えてくれるのではないでしょうか?
阪神淡路大震災で亡くなられた大勢の御霊に手を合わしつつ、生きている私達にとっては手を合わせる習慣が大切なのではないか、私はそう思うのです。

新年に向けて

クリスマスが終わり、間もなく新年を迎えます。クリスマスツリーから門松へと街の装いが急激に変化するこの1週間は「日本らしさ」を象徴する1週間ではないでしょうか?

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カレーライスにナポリタンそれにラーメン、洋食や中華として一般的なこうした食べ物は実は日本で生み出されたものです。インド・カレーやパスタなどといった基礎となる料理は当然海外から日本に入ってきたものですが、それを日本人の舌に合わせて作り出したのがこうした食べ物なのです。
仏教もキリスト教も、日本で生まれた宗教ではありません。それぞれ、海や陸の道を通って伝わってきました。
仏教やキリスト教が入ってきた当初はそれぞれ排斥されました。仏教を巡っては聖徳太子が皇子の時代に起きた蘇我氏物部氏争い、キリスト教を巡っては江戸幕府によって行われた踏み絵にそれぞれ象徴されます。その後、時間を掛けて仏教やキリスト教は日本文化に適した形に変容し、受容されたのです。それは決して熱心な信仰を強制するものではなく、カレーライスやナポリタンを食べるように、時折接するという姿勢です。まさにクリスマスがその好例です。
日本はこうした「フィッティング能力(社会に適した形に変容させ受容する)」に長けていると言えます。その基礎となっているのが、「八百万神」の思想なのだと私は考えています。どこにでもあらゆるところに神が宿る、この考え方が様々な宗教を受容した理由なのではないでしょうか?
新年を迎えて初詣に向かわれる方も多いと思います。神社で柏手を打つ時、その心は仏様を拝む心と同じであると気付いて頂ければ幸いです。
皆様、良いお年をお迎え下さい。

個性?

本ブログのサブタイトルに「西洋よりも東洋を好む……」と書いておりますが、今日は西洋のお話しです。
新年を迎えると日本でも様々な行事があります。世界的に有名な新年行事の1つとしてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートがあります。詳しくはWikipediaの説明をご覧ください。このコンサートでは、ヨハン・シュトラウス2世の作曲した楽曲を毎年演奏します。曲目に限りがありますから、もちろん重複する楽曲があります。このコンサートの見どころは毎年、著名な指揮者がタクトを振るうところです。日本人では2002年に小澤征爾さんがタクトを振るっています。

Carlos Kleiber – “Die Fledermaus” – J. Strauss – New Year’s Concert 1989

シュトラウスⅡ世 歌劇「こうもり」序曲 小澤征爾 ウィーン・フィル

上に掲載した2つの動画は、上がカルロス・クライバーの指揮のもの、下が小澤征爾さんの指揮のものです。同じ『こうもり 序曲(Die Fledermaus)』なのに、微妙に違っています。楽譜も場所も同じですが、指揮者と演奏者が違うと微妙な差が生まれます。テンポやそれぞれの楽器の音の強弱など、指揮者の楽曲への解釈の違いによって差が生じます。
この2つの演奏の違いから何が見えてくるでしょうか?私は、これこそ「個性」だと考えています。同じ楽譜の曲目を演奏しても全く同じものとならない。これは自明のことのようで、案外気付いておられる方は少ないように思います。
仏教も神道もキリスト教もイスラム教も、教えは違えど信じる人その中身は同じです。各宗教の「個性」を知ること、これも仏教への理解を深めるために必要なことだと思うのです。
今日はクラッシック音楽を手掛かりに考えてみました。

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音楽の聴き方――聴く型と趣味を語る言葉

著者:岡田暁生 
出版社:中央公論新社
発売日: 2009/06/25
メディア: 新書
参考URL:http://www.chuko.co.jp/shinsho/2009/06/102009.html
(中央公論新社)

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