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春は花

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念珠の形(天台宗・その1)

今回からは各宗派のお念珠に関して個別にみていこうと思います。
今回は、その枕としてのお話です。
初回は天台宗についてです。日本の仏教は飛鳥時代に朝鮮半島から伝来したと言われています(諸説あり)。仏教が日本に伝来してから約150年が経過した頃、奈良から都を移すこととなり、新しい都の精神的支柱として最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)が選ばれました。2人の御大師様は唐(中国)で仏教を学んでいましたので、お二人は当時、現在で言うところの「留学経験のあるエリート」でした。
大師号からも分かる通り、最澄は「教え(仏教)を伝え」、空海は「法(仏法)を弘め」ました。すなわち、最澄は比叡山を根本道場として仏教を伝えることに注力し、空海は各地を廻って仏法を弘めました。
天台宗には様々なぎょう があります。最近、報道された千日回峰行せんにちかいほうぎょう もその1つです。千日回峰行のように地球1周分歩くぎょう もありますが、12年を超えて伝教大師の御廟ごびょう の傍にお仕えするぎょう 、朝昼夜と読経を続けるぎょう もあります。どれも今でも続く厳しいぎょう です。比叡山では、こうしたぎょう と並行して、仏典解釈も行われました。
ぎょう (体)と仏典解釈(頭)の両輪で天台宗は脈々と受け継がれてきました。その中から独自の解釈を行う者が出てきました。
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(上記の画像は比叡山延暦寺・発行『伝教大師ご一代記』に掲載されているものです。)
上記に掲げた6人の御大師様は皆、比叡山で学んでいます。ですから、6名の御大師様の開かれた宗派のお念珠の形は天台宗の系統を受け継いでいます。
その詳細は次回以降にご紹介することとします。

念珠の形(総論・その1)

これまでいろいろとお話をして参りましたが、今回からは「念珠(数珠)」の形についてお話を進めていこうと思います。
初回の今日は、総論として「念珠」についてのお話です。
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上の図は「数珠挍量きょうりょう功徳経」と呼ばれるものです。一般に「念珠功徳経」と呼ばれるお経を基にした図です。「念珠功徳経」は念珠を持って念仏や仏様のお名前を唱えることで功徳があることを説いたお経です。念仏を重んじる浄土真宗で特に重用されるお経です。その為、この図も浄土真宗の形のお念珠が描かれています。(このお経の詳しい解説は国立国会図書館デジタルコレクションにあります『数珠功徳経和解』(貝葉書院、1896年)をご覧ください。)
この図を見ると、念珠の珠には全て仏様が宿っておられることが分かります。
図の上下にある一番大きな2つの珠は親玉おやだまと呼ばれますが、ここには釈迦牟尼仏(お釈迦様)と地蔵菩薩(お地蔵様)が宿っておられます。そして、念珠本体の基点となる4つの珠を四天玉してんだまと呼びますが、ここには不動明王と愛染明王あいぜんみょおう善財童子ぜんざいどうじ善蜜童子ぜんみつどうじが宿っておられます。
この図を簡単に解釈すると、図の上がお釈迦様のお住まいになる極楽、そして図の下が地獄です。ですから、この図の地蔵菩薩の近くには「地獄」と書かれているのが分かります。
お地蔵様は「釈尊が入滅されてから、弥勒菩薩が下生して仏になるまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生しゅじょうを教化・救済する菩薩」『広辞苑〔第6版〕』(岩波書店、2008年)ですから、地獄から魂を救ってくださるのです。
お念珠には宗派によって様々な形がありますが、基本的にはどの宗派であっても主玉にはお釈迦様が宿っておられます。皆さまがお使いのお念珠も、普段から身に付けて頂ければ、お釈迦様が皆様一人一人をお守り下さるのです。お念珠は「お守り」としての役目があると言えます。
次回は、「功徳」という面に焦点を当てて、総論の続きをお話ししたいと思います。

幸せになれますように。

8月後半になりました。まだまだ暑い日が続きますが、皆様体調はいかがでしょうか?夏バテしておられませんか?


前回はお経の話をしました。お経と言うと「ありがたいものなのだろうなぁ。」とは思いつつ、「具体的に何を言っているのだろうか?」と思われる方も多いと思います。お経にはたくさんの種類がありますし、宗派によっても読み方が異なったりします。
私もお経を暗誦することは得意ではありません。
そんな私でも覚えられるとても短いお経があります。『四弘誓願(しぐせいがん)』というお経です。
【原文】
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
【現代語訳】
この世に生きる全ての人が幸せになれますように。
際限のない煩悩を無くせますように。
お釈迦様の壮大な教えをすべて学べますように。
最上の悟りを得る事ができますように。
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四弘誓願は佛教を信じる者が行う基本的な4つの誓いです。4つくらいなら、結構簡単にできそうですが、内容を見るとどれも壮大な話でとても実現できそうにありません。
ただ、最初の「衆生無辺誓願度」、つまり「この世に生きる全ての人が幸せになれますように。」というのは、少しであればできそうな気がします。
日本に生きる私たちは、様々な不平不満はあれども、世界の中で見ればかなり恵まれた環境に居ます。こうした環境に感謝して、遠く離れた人々に思いを馳せる。これが私たち誰にでもできる佛様の教えの実践なのだと考えています。勿論、募金をするなどの支援も大切です。しかし、行動に移す人はわずかでも、皆が幸せになれるように願うことは誰にでもできる事だと私は考えています。
本日は、『四弘誓願』について私なりの解釈をお話ししました。

お経を誦む

お盆が過ぎました。皆様はお盆をどのように過ごされたでしょうか?地元に帰省された方、各地へ旅行された方、様々だと思います。

私は、お盆の時期に棚経にお越し下さる僧侶の方々の後ろで、一緒に誦経をしました。
弊社は以前ご紹介した通り、浄土宗西山深草派の総本山である誓願寺様の門前に店を構えております。ですから、浄土宗西山深草派のお寺様に普段から回向をお願いしております。そしてお盆の時期には、弊社に有縁の浄土宗(鎮西派)のお寺様、そして京都市内の臨済宗の僧堂の雲水(修行僧)の方々がお越しくださいます。
【私が回向の時に用いる経本】
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私は幼い頃、月詣りやお盆の棚経で弊社にお越しになるお寺様の後ろで、ずっと正座をして座っているだけでした。祖母が隣に座っており、正座を崩して良い雰囲気ではありませんでした。足が痺れ、「早くお経が終わらないかなぁ~。」と心の中で思っていました。
そんな私が大学生の頃、ある本山様の大きな法要に参列しました。そこでは在家の方々が大きな声で一心不乱にお経を唱えておられました。その光景を目にしてから、私は「お経を声に出して読むことが大切」だと考えるようになりました。
お寺様と一緒にお経を唱えていると、それまでは単なる「音」でしかなかったお経にいろいろと種類があり、それぞれに意味があることが分かってきました。何より、お寺様がどういったお経を誦んで下さっているのかを知ることができ、お仏壇への回向を行う意味が私の中で理解できるようになりました。
「門前の小僧習わぬ経を読む」ということわざがありますが、このことわざを誦経する時にいつも頭に思い浮かべてしまいます。


お念珠を片手に経本を持って誦経をする。皆さんも機会があれば実践されるとお経が単なる「音」ではなくなり、案外気持ちが良いものだと感じられるかもしれません。

「東洋」と「西洋」

ここ数か月、季節の行事などに沿った話題でお話を進めてきました。話題に何の脈絡もないように感じておられた方も多いのではないでしょうか?
実は、「自然崇拝」について洋の東西による違いを考えてみようという意図で進めていました。




私の興味関心は、「『東洋』と『西洋』の違い」です。世界は「東洋」と「西洋」だけではなく、イスラーム圏などもあります。ただ、現在の国際秩序形成の中心であった「西洋」と日本が属する「東洋」の違いを理解することは肝心なことだと考えています。
これまでお話してきた通り、日本では自然崇拝を基礎とした神道と大陸から渡ってきた仏教とが習合し、文化の形成基盤となってきました。一方の「西洋」は、キリスト教を基礎として文化が形成されてきました。「西洋」では人間や自然も含めた万物を神が創造したと考えられてきました。ですから、自然に神は宿らず、人間の文化形成に自然崇拝の要素が少ないと言えます。
文化形成の面で「東洋」と「西洋」にとても大きな差が生まれたのは、こうした「自然への接し方」に違いがあったからだと私は考えています。
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「西洋」の文化形成の基盤はヘレニズムヘブライズムです。では、日本に限らず「東洋」の基礎となっているものは何でしょうか?私は、自然崇拝と仏教なのではないか、と考えています。
「手を合わせる」という祈りの所作は洋の東西によって違いがありません。「東洋」と「西洋」の文化形成基盤の差が、もしかすると念珠の発展過程に何か関係があるやもしれない。私はそうした関心を持ち続けています。
今日は少し難しいお話でしたが、私の興味関心についてお話を致しました。


(「東洋」、「西洋」と確固付きで表記しているのは、①中東などのイスラーム圏を「西洋」に含めていないこと〔イスラームもヘブライズムの流れを汲むので〕、②一般的な東洋にも東南アジアにイスラーム圏があること、の2点を考慮してのことです。)

念珠の素材は何が良いのか?

念珠は一般的に「数珠」と言われます。というのは、マントラといわれる呪文をどれだけ唱えたかを把握するのが念珠の起源だから、だと考えられています。「呪文」というと魔法使いをイメージしてしまいます(笑)が、一番分かりやすい「呪文」が念仏です。
弊社は誓願寺というお寺の門前に位置しております。誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山です。
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浄土宗は以下の4派に大きく分かれています。
○鎮西派(一般的に「浄土宗」と呼ばれます。)
→総本山:知恩院
○西山派
・浄土宗西山禅林派
→総本山:永観堂 禅林寺
・西山浄土宗
→総本山:粟生光明寺
・浄土宗西山深草派
→総本山:誓願寺
現在は4派に分かれていますが、そのすべては法然上人の教えから始まった宗派です。
法然上人には沢山の著作がありますが、私が一番読みやすかったのは『一百四十五箇条問答』という著作です。これは一問一答形式で法然上人が質問にお答えくださっているものです。
145の問答の中で「数珠」に関する問答が3つあります。そのうちの1つをご紹介します。
一三七
【原文】
一つ、数珠には桜、栗忌むと申し候はいかに。
答ふ、さる事候はず。
【現代語訳】
「数珠に桜や栗を使うのは縁起が良くないということはどうでしょうか?」
「お答えします。そのようなことはございません。」
桜の木や栗の実が具体例として挙げられています。諸説ありますが、桜はパッと咲いてパッと散るので、栗はお寺の「庫裏」と発音が同じなので縁起が悪いと考えられたそうです。私はこの問答から次のことを解釈しました。すなわち、高貴なものを身につけることが大切なのではなく、身近なものでも良いから只管に念仏を唱えることが大切なのだ、ということです。
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弊社でも桜の木を素材とした念珠を扱っております。上の画像の念珠が桜の材を使った念珠です。使い続けると味が出る良い念珠です。

法然上人は阿弥陀経を漢音、呉音、訓読の3通りで毎日唱えられたそうです。凄まじいことですよね。
これだけ阿弥陀経を唱えられた法然上人が「只管に念仏を唱えなさい」と説かれるのですから、念仏には凄い力がありそうな気がします。
身近なものと共に念仏を唱える。念珠は特別なものではなく、身近なものなのだという感覚をお持ち下さると、弊社としては大変嬉しく思います。

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一百四十五箇条問答――法然が教えるはじめての仏教

著者:法然 
訳・解説:石上善應 
出版社:筑摩書房
発売日: 2017/07/10
メディア: 文庫本
参考URL:http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480098061/
(筑摩書房)

 

一生懸命生きて見えるものとは?

皆様方も近親者を亡くされたご経験をお持ちのことと思います。先年に私の祖母も鬼籍に入りました。
祖母の葬儀が終わった後、火葬場に行きました。祖母と本当に最後のお別れをした後、40分くらいで「再会」しました。
「再会」した際、私は何とも言えないあっけなさを感じました。人間はこんなにも儚いものなのか、と。
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本ブログでは「皆様の中の『佛』」や「無相の自己(formless self)」などとお話をして参りました。物理的な人間というものは非常にあっけないものなのだと思います。それは体の大きな人も体の小さな人も同じです。「人」を科学的に説明すれば、たんぱく質が……、水分が……、、、、、などと説明できるとは思います。でも、それでは「人」を説明できたとは言えないように思います。
「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」という言葉があります。似た言葉に「本来無一物」という言葉があります。これは、人とは「本来無一物」である、つまり、人とはもともと何もないものだ、という意味です。ただ、「何もない」のであれば、「塵も埃も積もらないではないではないか!」という批判もあります。一方で、「何もない」という境地を目指して一生懸命生きていくことは、これもまた大事なことなのです。(難しいです。。。)
「無一物中無尽蔵」とは、「何もないこと」の境地に達すればそこには大いなる世界が広がっている、というように私は解釈しています。「自らが気付いていない自分」を今を一生懸命に生きる事で見付け出せば、その先には大いなる世界が広がっているのではないか、私はそう思っています。
人間とは儚いものなのですが、今を一生懸命生きていけば大いなる世界に接することができる可能性を秘めているんですね。今を一生懸命生きる折々に、念珠がその傍らにあることが弊社の一番の喜びです。
本日は、祖母の命日が近付いていることもあり、個人的なお話をさせて頂きました。
(上と右の画像の書は、鎌倉・巨福山建長寺管長・栢樹庵 吉田正道老師様の揮毫された書です。)

念珠に表出する”もの”

5月も3分の1が過ぎました。少し更新が滞っており、申し訳ありませんでした。
ゴールデンウィークを皆さんはどのように過ごされたでしょうか?私は専ら自宅に居りました。一生懸命勉強をしていました、、、と言いたいところですが、少しアニメ鑑賞をしていました(笑)
観ていたのは『らんま1/2』というアニメです。『うる星やつら』などで有名な高橋留美子先生の作品で、ご存知の方も多いと思います。主人公の早乙女乱馬は 水を被ると女性に、お湯を被ると男性になる(元に戻る)体質です。乱馬の父は、水をかぶるとパンダに、お湯を被ると男性に(元に戻る)なります。
『らんま1/2』は、乱馬と許嫁のあかねがいろいろな敵と戦って仲を深めていくストーリーです。ドタバタ劇が面白いので大型連休にアニメを観てしまいました。最近では、新垣結衣さんが主演で実写化されましたので、そちらをご覧になった方も居られるかもしれません。
乱馬とあかねの関係は、女・乱馬と男・乱馬で当初少し違っているのですが、徐々にあかねは乱馬自身を好きになって行きます。
先日、本ブログで「念珠」の「珠」についてお話しした際に、「自らが気付いていない自分」と書きました。しかしながら、「これはどうもよく分からない。」とのご感想をいただきました。ありがとうございます。
『らんま1/2』を観ていて、女・乱馬、男・乱馬と外見が大きく異なる「乱馬その人」をあかねが好きになって行く過程が、「自らが気付いていない自分」を好きになって行く過程のように思えました。


「大きい・小さい」「長い・短い」などの視覚による情報で私たちは物事を判断してしまいがちです。そうした基準は客観的な基準ですが、人間はそんな客観的な基準だけで判断できません。どうしても感情というか、気持ちが表に出てきてしまいます。
自分自身の外見を取っ払って、「自分とは何か」を説明する。これが「自らが気付いていない自分」なのではないか、と考えています。
形や色や大きさなどの基準で説明できない自分、「無相の自己(formless self)」が長年使い続けた念珠に表出するのではないか、私はそのように考えています。

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東洋的無

著者:久松真一 
出版社:講談社
発売日: 1987/01/06
メディア: 文庫本
参考URL:http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061587700
(講談社BOOK倶楽部)



(6月5日追記)5月9日に本記事をアップいたしました際に埋め込んでおりました動画について、適切にアップされた動画ではありませんでした。ご指摘を頂戴いたしましたので、埋め込みを削除いたしました。お詫び旁御礼を申し上げます。今後共、ご指導のほどをよろしくお願い申し上げます。

「念珠」の「珠」について(その2)

今回も前回の続きです。念珠の「珠」について考えていきます。
前回、「珠」とは「皆様の中の佛が表出したもの」と書きました。ここで私が「佛」と書いたことに疑問を抱かれた方もおられるのではないでしょうか?
というのも、「佛」といえば「仏陀」や「お釈迦様(釈迦牟尼佛)」のことを想起される方が多いのでは、と考えるからです。
確かに、お釈迦様は悟りをひらかれて仏陀(=悟りの境地に達した者。覚者。)となられました。ですから、「佛」と聞いてお釈迦様を連想なさることは間違いではありません。ただ、「佛」とは唯一絶対のものではないのです。
以前ご紹介した禅画で有名な白隠禅師が坐禅和讃というものを残されています。全文はこちらをご覧ください。坐禅和讃は「衆生本来佛なり」から始まり、「この身即ち仏なり」で終わります。
「衆生本来佛なり」とは「みんな仏さま」と解釈すると分かりやすいです。
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そして、「この身即ち仏なり」とは、その通り「この身がそのまま仏さまなのです。」と解釈できます。
お釈迦さまは2000年以上前の方ですが、生まれた時から仏様ではありませんでした。悟りをひらかれて、多くの説法をなさいました。それがお経や仏典として遺っています。私の想像ですが、悟りをひらかれたお釈迦さまが多くの説法をなさったのは、誰でも仏となる可能性がある悟りをひらくことが可能!)と感じられたからではないでしょうか?
皆は気付いていないかもしれないけれど、実は皆の中には仏さまが居るのだよ。」――――そんな風に仰っておられるように私は感じ、想像しております。もちろん、私個人の勝手な想像ですので間違っているかもしれません(笑)
ですが、白隠禅師の坐禅和讃を読んでも、そういった意味合いが読み取れますので、あながち間違ってはいないかもしれないとも思います。


お念珠を長く使い続けて頂くと、皆様の中にある「佛」が表出する。自らが気付いていない自分をお念珠を通して気付くことができるかもしれない。これが弊社が「念珠」という言葉にこだわり続ける理由だと考えております。

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人はみな仏である――白隠禅師坐禅和讃・一転語

著者:朝比奈宗源 
出版社:春秋社
発売日: 2011/05/20
メディア: 単行本(ハードカバー)
参考URL:http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-14421-3/
(春秋社)

 

「念珠」の「珠」について(その1)

さてさて、しばらく間が開きましたが、「念珠」について1文字ずつ考えることの続きを綴ってみたいと思います。
今日は「珠」という字についてです。「珠」という字を普段あまり使うことはないと思います。恐らく最もよく知られた単語は「真珠」ではないでしょうか?
「珠」を辞書で引くと次のように書かれています。
1.(水中で産する)丸いたま。しんじゅ。また、美しく、立派なものを形容することば。
2.真珠のように丸いもの。
『goo国語辞書』より
ふむふむ。つまりは、美しいものを指した言葉なんですね。しかし、「珠」は単に「美しい」だけではありません。
仏教の数多ある経典の中に『妙法蓮華経』というお経があります。一般には『法華経』として知られています。「南無妙法蓮華経」と毎日唱えておられる方には馴染み深いお経です。
『法華経』の中にはお釈迦様が分かりやすく喩え話をして下さっている部分があります。「7つのたとえ話」として知られているかもしれませんが、今回はそのうちの一つ「衣裏珠(えりじゅ)のたとえ」をご紹介します。
とある貧乏な男が金持ちの親友の家で酔って眠ってしまいました。金持ちの親友は、用事があって男が眠っている間に出かけなければならなくなりました。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけました。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していました。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができました。
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(上の画像の書は、京都・花園妙心寺塔頭・霊雲院住職の曇華室 則竹秀南老師様の揮毫された書です。)
このたとえ話は、無上の宝(つまり「佛」)を身に付けているにも関わらず、それを自覚せずに低い悟りで満足しているお釈迦様の弟子達への反省と感謝の込めた喩え話です。
真珠は生きた貝(アコヤガイなどが有名です。)の中に異物が入り、それが核となってあの美しい珠が出来上がります。
人も同じです。中身に実は素晴らしいものを持っています。そして、その人それぞれの経験や環境によって、その人独自の「珠」が出来上がって行くのではないでしょうか?
弊社の扱うお念珠には価格が様々あります。もちろん、高いお念珠をご購入頂くことはありがたいことなのですが、どんな価格のお念珠であっても、長く使い続けて頂きたい――これこそが弊社の最大の願いであります。
それによって、皆様それぞれの「念(=今を精一杯生きる心)」が入り、美しい「珠(=皆様の中の佛が表出したもの)」となる。これはお金では買えない、かけがえのない価値だと私は考えております。
今回は、「法華経」を手がかりに「珠」について考えてみました。「珠」については次回も取り上げてみたいと思います。

安田念珠店

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