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春は花

Category Archives: 仏教

モノの捉え方

本屋でぶらぶらする時間は結構好きなのですが、皆さんはどうでしょうか。
私自身も最近はインターネット通販で本を買うことが多くなりましたし、多くの方が電子書籍を利用しておられることと思います。本屋や図書館はどんどんと無くなっていくのだろうなぁ、と感じるのですが、そうはいっても私は本屋や図書館をぶらぶらする時間が好きです。未知の本に出合う事が多くあり、そういった本が私の人生を左右したこともありました。
先日、本屋で見つけた本が面白かったので、今回はその本を紹介しようと思います。
その本とは『対談 風の彼方へ』という本です。昨年末に出版されていました。
対談の内容を文字に起こして出版されているので、読み易い本です。対談者は著述家の執行草舟先生と横田南嶺老師様でした。全四部構成となっており、全体的に面白かったのですが、私自身は第4部「絶点を目指せ」を最も興味深く読みました。
その中の一部ですが、古今東西の時代を問わず、「戦争」というものについて語っておられます。「戦争」というと太平洋戦争を想起する方が多いと思いますが、言われてみれば小学校や中学校で習う日本の歴史はほとんどが「戦争の歴史」だったのです。
京都の寺社は、現在のものはほとんど徳川家康から徳川家光に掛けての時代に今の時代的に言えば「公共事業」として再建されたものです。こういった建物に接すると、お寺を政治権力が次々と建てたということは興味深いことだと思っていました。もちろん、出仕する各大名の力を削ぐ目的も徳川家にはあったのでしょう。
今回この本を読んで、「怨親平等(おんしんびょうどう)」という思想を紹介されていました。怨みと親しみが平等、同じという考え方です。この思想に基づけば、戦争は全てが悪ではなく全てが善ではないということになります。過去の事象を歴史として捉える私たちは、一般に戦争を悪のものと捉えています。勿論、これから戦争を起こそうとするのはいけないことです。しかし、「戦争」を過去のこととして捉える場合は、長所短所の両面をきちんと見なければならないのだということを学びました。
歴史について、いろいろな見方があり、時に論争になる話題ではありますが、いろいろな考え方を吸収する手段として読書は良いものだと感じた一週間でした。

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対談 風の彼方へ :禅と武士道の生き方

著者:執行草舟=横田南嶺 
出版社:PHP研究所
発売日: 2018/12/1225
メディア: 単行本(ハードカバー)
参考URL:対談 風の彼方へ 禅と武士道の生き方/

 

鎌倉散策

梅が見ごろの洛陽です。
先週末、私は鎌倉散策を致しました。主たる目的は金運アップの「銭洗弁財天」をお詣りすることでした。
JR鎌倉駅で電車を降りて、銭洗弁財天宇賀福神社を目指しました。
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坂の途中に一の鳥居があり、洞窟を抜けて本殿に到達するという構造になっている神社です。
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本殿でお参りした後に、すぐ奥にある洞窟の中の奥宮前でお金を洗います。今回は手持ちが少なく、多額を洗うことができませんでした。洗ったお金は使わないといけないと言われているので、有縁の方に差し上げました。訪れてみて、自然に出来上がった洞窟の凄さを思い知りました。奥宮のある洞窟は水が湧き出してすごく神聖な感を受けます。
そのままJR鎌倉駅に戻っても良かったのですが、そのまま山の頂上まで登り、葛原岡神社をお詣りしました。こちらは縁結びの神様です。
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山の上から麓を望んでみました。雨なので霞んでいますね。
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そのまま山を下り、JR北鎌倉駅を目指しました。JR鎌倉駅から銭洗弁財天を経由してJR北鎌倉駅まで行くと私の足で約1時間かかりました。
電車の時間を確認して、JR北鎌倉駅のすぐ目の前の円覚寺にお参りしました。
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円覚寺の山号は「瑞鹿山」と言いますが、その由来となった白鹿洞を初めて見ました。円覚寺開山の無学祖元禅師が説法をした時に白鹿が集まってきたとの逸話に由来しています。鎌倉という土地は海が近いので、山が自然に削られてこうした構造が出来上がるのだと感心してしまいました。
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円覚寺山内の一番奥にある黄梅院という塔頭まで歩いて行きました。ここに居られる聖観音様に一度会ってみたかったのです。
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お優しい表情をされていて、何だか癒される感じがしました。
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時間としてはそれほど余裕を持って滞在したわけではないのですが、鎌倉という街は歴史のある、そして神仏の沢山鎮座される街なのだと感じた1日でした。

お焚き上げ~一年の御礼を込めて~

もう3月です。時がたつのが早いですね。
弊社では祈祷札やお守りをいろいろな寺社様から頂戴致します。お札などは玄関の高い位置に掲げてお祀りしております。そうしたお札は立春から節分までの1年間で頂戴したものを次の年になるとお焚き上げして頂きます。
今週月曜日の2月25日に京都の東に在る黒谷の金戒光明寺で「浄焚式(じょうぼんしき)」が行われました。そちらに私も伺いました。
【山門】
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こちらでは、御札やお守りだけではなく古いお仏壇などの大きな物もお焚き上げされておられます。
【お焚き上げの様子】
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お守りやお札など、ごみ箱にポイとは捨てられない物を供養して頂くのは大変ありがたいことだと思います。勿論、こういうものは気持ちの問題なので、ごみ箱にポイと捨てられる方も居られるとは思います。ただ、いろいろな神仏の念が入ったお札やお守り等をきちんと供養して頂くことは重要なことだと私は考えています。
昨年一年の無事の御礼も込めて、今週は浄焚式のご紹介をさせていただきます。

生活の中の観音様

本ブログは個人的な趣味趣向で続けております。私の現在考えていることや体験したことを踏まえて記事を書いておりますが、こちらで発信したことを受け止めて、反応してくださる方が居られます。
昨年から私は観音霊場巡りを続け、本ブログでも何度もご紹介してきました。その記事や他の多くの方のお話を聞いて西国霊場を巡られたご婦人が居られます。ご令妹様が西国霊場巡りを発願されたそうですが、昨年の節分に幽明境を異にすることとなってしまったそうです。ご令妹様の御遺志を継いで、そのご婦人が満願されたとのことです。そして、先日のご令妹様の一周忌に合わせて額装した観音様をお迎えされたそうです。
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この額は仏間の近くの壁に掛けておられるとのことです。落ち着いて眺めると、御二人が力を合わせて満願された観音様を日々拝することができるのは実に素晴らしいことだなぁ、と感じます。私は額装というと、欄間に掛ける横額しか頭になかったのですが、小さなサイズの納経軸をこのように額装し、毎日拝するのが本来的には良いことなのかもしれません。生活の中に観音様を感じるのは、今日出会った見知らぬ人が観音様や故人の変身した姿かもしれないと思える良いことなのだと、改めて感じました。
弊社の扱う念珠という商品は人の心に寄り添う御品です。「お金が儲かりますように」や「試験に合格しますように」というこの世の自己への御願い事も勿論尊ぶべきものだと私は考えますし、私もよくお願いします。ただ、「故人が極楽へ往生できますように」と願う先祖供養の念や、「家族の皆が健康でありますように」と他人の平安を願う念こそが「祈る」という行為の始まりであり、そういった気持ちを是非とも大切にして参らねばならないなぁ、と感じました。そういう意味で、今回ご紹介したご婦人の行脚は弊社が大切にせねばならない念を教えて下さった真に尊ぶべき行為と思いました。

十三の仏様

弊社には毎日の朝礼の際に、当番の者が1分間のスピーチをする習慣があります。ここ数年で始まったものですが、2か月程度で全員が一巡するので、それぞれの興味、関心を知る上でも非常に参考になる営為だと思っています。
弊社の社員でつい先日親戚が亡くなったために、初七日や四十九日の法要を経験した者が居りました。そしてその者から数日前の朝の1分間スピーチで、四十九日の意味についての報告がありました。宗派によって考え方の若干違う点もありますが、主として故人が生前の裁きを受ける期間だと言われています。
この裁判官の役目を果たす仏様が 十三仏として信仰されています。私は昨年、 京都十三仏霊場を巡って掛軸にしました。
十三佛
最下部には、我が家の菩提寺とその総本山である誓願寺様の御朱印を頂き、合計で15カ寺を巡りました。本年に回忌が巡って来るご先祖さんが居られることもあり霊場巡りを発願しました。それぞれの仏様が回忌に併せて死者の霊に裁きを下すというのは、聞く限りその裁判の場に自分自身がいつか出ることを考えると結構ドキドキするものです。故人が少しでも裁きが軽くなるように、生きている者がお祈りするというのが考え方としてあるそうです。
色々な話を聞いていると、仏様の世界というのは救いの手がいろいろと差し伸べられているのだなぁ、と感心することが多くあります。
今週は弊社の日常の一時から想起したお話をさせていただきました。

雪の明王堂

確たる理由は分かりませんが、弊社には不動明王さまが居られます。像ではなく掛軸ですが、少なくとも半世紀以上の間はお祀りしております。
今回、ご縁があって弊社でお祀りしている不動明王さまを無動寺谷の明王堂で大阿闍梨様に拝んで頂けることになりました。大変に光栄なことです。初不動(1年最初の不動明王様の御縁日)の1月28日は月曜日の為に都合がつかなかったので、前日の1月27日に無動寺谷の明王堂に参拝いたしました。
当日は雪が積もり、参道を歩くのも一苦労でした。ただ、参道は早朝から大阿闍梨様はじめ、明王堂の方々が雪掻きをして下さっておりましたので、難無く明王堂に到着することができました。
【雪の明王堂】
明王堂
【明王堂から琵琶湖を臨む】
明王堂から琵琶湖
夏に参拝した際と比較すると表情が違いますね。この寒い中、いつもと変わらず大勢の参拝者の方々が居られ、私もお護摩に参じました。
お護摩に参じると、いつも目には見えない極めて凄まじい「力(パワー)」、「気」を感じます。何と表現して良いのか分かりませんが、堂内の空気が強く鼓動するような感を覚えます。こうした力強いパワーを頂戴して一生懸命に頑張っていきたいと感じる参拝でした。

時を経た教え

関西に住んでいる方々にとっては、昨年6月の大阪府北部地震が記憶に新しいかと思います。その関西では阪神大震災がやはり極めて大きな衝撃を持って未だに語られています。
1995年1月17日が阪神大震災発生の日ですが、その前日の1995年1月16日に1人の高僧が旅立っておられました。相国寺の管長様であらせられた止止庵 梶谷宗忍老大師様です。(詳しくはこちらをご覧ください。)
個人的には2回ほどお目に掛かったことがありました。当時は幼児だった私でさえ「細い御方だ」と思ったと同時に、優しく接して頂きながらも全てを見透かされているような、強烈な印象を受けたのを覚えています。そして遷化された翌朝が阪神大震災、幼いながらも私の記憶に極めて強く刻まれている老大師様です。
今週、その止止庵老師様の二十五回忌法要がありました。
【止止庵老師様揮毫の「無」】
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大学生になってから、弊社とのご縁だけでなく、私の所属していたサークルと止止庵老師様との間に極めて深いご縁があったことが分かりました。止止庵老師様は書籍を多く著しておられ、そういった書物を読んで勉強する機会にも恵まれています。
二十数年経ってから、「あぁ~、あの止止庵老師様がこう書かれていたのか。」と思えるのも、お目に掛かった私自身の経験があってこそだと思います。人との出逢いは、その時一瞬の出来事ではありますが、後々に大きな影響を与えるものなのだと、とても感じ入った一週間でした。

「苦しみ」こそ光り輝いている

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毎年のことですが、どうも私は年末になると気が重くなります。何であっても「終わり」に近づくと寂しい気がするのです。
私は同世代の人々に比べると失敗が多かったと思います。人生の進路に関しても、あっちに行ったりこっちに行ったりすることが多くありました。生来の楽天家なので「何とかなるさ。」と思っているのですが、そういった性格でも落ち込むことは数多くありました。


今から4年前、2014年(平成26年)11月でした。初めて一人で老大師さまに相見することになりました。お話が終わってから「頑張りなさい。」と添えて下さり、お言葉を賜りました。
「古人曰 刻苦光明必盛大也」(こじんいわく こっくこうみょうかならずせいだいなり)
禅語集など解説本を読んで、出典や字義などを調べました。その時は「頑張れば花開く日が来るんだな。」程度に思っていました。
それから4年、私自身にはいろいろなことがありました。呑気に過ごしているようですが、それなりに「苦しい」と思うこともありました。
先日、その言葉の意味が何となく分かったような気がしました。「苦しみは将来の幸せのための準備だ」と思っていましたが、「苦しみを感じることこそ”生きている幸せ”を感じることなのだ」なのだと。
「生老病死」という四つの苦しみがありますが、いやいや「生きていることは幸せ」なのだと思いました。苦しみを感じる、それこそ生きている証拠、生きていることは何て幸せなんだろうか。そういったことがこの言葉には込められているのではないだろうか、と思った次第です。
雑駁ですが、4年ほど経過して何となく意味を理解できるようになりました。いろいろな方々にいろいろなことを教えて頂くことは、生きていく上で大切なことだなと感じた1週間でした。

存在することに感謝

十月になってかなり涼しくなりました。
更新が滞っており申し訳ございません。今回が本ブログの100回目ということなのですが、相変わらずの内容だとご容赦ください。
般若心経というお経、皆様もよくご存知のことと思います。私も結構な回数お唱えしてきましたが、「結局何を言っているのだろうか?」ということは未だに分からないままでいます。
本年は十二支が戌年、十干が戊の年ですから、組み合わせは戊戌の歳です。1200年前の同じ戊戌の歳に当時の嵯峨天皇が般若心経を写経なさいました。そして、弘法大師・空海様が般若心経の功徳を解説されたのが『般若心経秘鍵』という書物です。この時の弘法大師様を特別に「秘鍵大師」とお呼び致します。
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書店で般若心経の様々な注釈書を購入し、読み漁ってみました。簡単には言い表すことはできませんが、般若心経は「人が存在する真の意味」を説いたお経なのだと感じます。
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何もないところから、父と母が出会い、そして私が生まれた。生まれた時は何もできなかった私も、周りの様々な人の助けによって自分のことは大体自分出来るようになった。。。。こうして偉そうに物言いをしているのも、自分自身一人の力ではないということを肝に銘じなければならない。
本ブログを続けて行く中で色々と勉強したり、教えて頂いたりしていますが、そうしたことは般若心経に解かれる「人の存在の意義を考えることにもつながるのだとつくづくと感じます。
楽しみながら続けて行きますので、今後もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

戸津説法拝聴

9月に入りました。まだまだ暑いですね。
8月には様々な行事がありました。お盆がその代表です。天台宗では毎年8月21日から25日に掛けて琵琶湖畔の東南寺(とうなんじ)というお寺で戸津説法(とづせっぽう)という法華経を高僧が説く会が開かれています。(今年の様子はこちらをご覧ください。)
私も1日だけですが、説法を拝聴しに参りました。毎年同じ法華経を解説するわけですから、毎年同じ内容になりそうなものですが、実際にはそうではありません。説法師が毎年異なりますので、説法師を務められる高僧の方の体験に基づいた法華経の解説がなされます。
私は2014年から毎年、最低1日は説法を拝聴しにお参りしています。法華経の同じ部分の解説を聞くこともよくありますが、説法師によって捉え方や語り方がそれぞれ異なりますので、いつも新たな発見があります。
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今年の説法師は延暦寺学園の学園長でもあられる佐々木光澄大僧正様が務められました。今回私が拝聴したお話は「観普賢経」についてでした。法華経は「懺悔の経」とも呼ばれますが、その中でも「観普賢経」は「懺悔」について詳しく説かれたお経です。
「観普賢経」は、お釈迦様が「後三か月で入滅する」というところから始まります。そして「懺悔」に話は移ります。お釈迦様は一般の信者のための5つの懺悔をお話しくださいます。
一.正しく三宝(仏、法、僧)を帰依し、供養礼拝する。
二.父母、師長を孝養する。
三.社会の平安を乱さない。
四.殺生を自分がしない。そして他人にさせない。
五.因果応報を信じ、仏の道を信じ、仏は滅ぶことがないことを知る。
この5つ、守ろうと思うと大変難しいです。私はお肉やお魚を食べていますから、まず「四」は守れていません。「二」も、仮に親孝行をしていたとしても、年長者や目上の人にきちんと礼節を以て接しているだろうか、と自分自身を疑うこともあります。
こう考えると、「守れない戒めは意味がないのではないか!?」と思うのです。しかし、今回の説法を拝聴すると、佐々木大僧正様も正直にご自身も守れていない旨を吐露され、それでも「あぁ、また守れていない。いけないなぁ。」と反省(懺悔)する”その気持ち”が大切なのだ、と説かれていました。「反省の気持ちを持つことが大切」というお話を聞いて、私は仏教でよく出てくる「戒め」のお話に対して納得することができました。「絶対に守らなければならない」と思ってしまうと窮屈になってしまうので、倫理的にしてはならない行為でなければ、「また守れていない。いけないなぁ。」と反省する気持ちを毎度持って、少しでも自らの行為を改善していくことが大切なのだと解釈しました。
戒めを知り、自分自身の行動を少しでも改善する行為が人の「成長」であり、それを「観普賢経」の中で「懺悔」を通して説かれているのだと、今回の戸津説法を拝聴して、発見できました。
法華経は大部であり、自分自身でもいろいろな文献を読むことで少しずつ学んでいますが、やはり高僧のお話を聞くと、分からなかったことが晴れるような感覚を覚えて、とても良いものだと感じました。

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