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「見えないもの」を知る

世事騒々しい1週間でした。人類はウイルスという「見えないもの」と闘っております。
今週の月曜日(3月2日)に円覚寺派前管長の栽松軒 足立大進老師様の遷化の報に接しました。世間がウイルスで騒がしい閏日に示寂されたとのことです。お弟子様で円覚寺派現管長の青松軒 横田南嶺老師様のブログ(その1その2その3)を拝見しておりますと、このウイルス騒動の影響で様々なご予定が中止となり、幸いにも栽松軒老師様の最期、そして通夜の後の一夜をご一緒なさることができたそうです。「終わり良ければ総て良し」ではないですが、人の最期はやはりその方のお人柄や人生を現すものだと思います。日本中を飛び回っておられるお弟子様思いの最期の迎え方だったなぁ、と私は感じました。
私は栽松軒老師様にお目に掛かった経験はありませんが、出版されているご著書はすべて拝誦しておりましたので、ご高著を通じて教えを賜っておりました。遷化の報を受けた後、弊社の中で話をしておりましたところ、弊社社員の中には嘗てお目に掛かった経験がある者やお修理をお預かりした者も居りました。私の知らないところで御縁があったのだなぁ、と思いました。
さて、栽松軒老師様の教えで特徴的な教え、というか私が一番最初に思い浮かぶのは次の詩です。
【円覚寺発行の朱印帳の最初のページに印刷されたものです】
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世の中には「見えるもの」と「見えないもの」があります。「見えるもの」は目で見ることができますから問題ありませんが、「見えないもの」は存在を確認しなければなりません。電波や放射能、そして今話題のウイルスも機器を通じて存在を確認できます。問題なのは”心”です。
”心”というのは存在することは分かっていますが、物理的に存在を確認することはできません。嫉妬心、猜疑心、虚栄心といった心はできるだけ小さくしたいものですが、昨今のトイレットペーパー不足の報道を見ると、人がこうした”心”を小さくすることがどれだけ難しいことなのかを思い知らされます。
しかし、そうした”心”もいつもそういう状態ではなく、「花や月が美しい」と感じる”心”となることが可能なのです。仏教では「絶えず心に観音様を描き、祈り続け、智慧と慈悲の心で生活しましょう。そうすれば観音様の大いなるお慈悲を知ることができます。」と説かれます。「絶えず」というのはなかなか難しいのですが、「花や月が美しい」と一瞬でも思える”心”を自分は持っているのだと自信を持つことが大事なのではないか、と私はこの詩を見ていつも思います。
室号の通り、栽松軒老師さまは松を栽(う)えられ、その松は青々として寿色が多いように私は眺めております。ご冥福をお祈り申し上げます。

お伊勢さんへ

世間はコロナ騒動で大変なことになっております。皆様は御平安でしょうか?こういった事態が到来すると先人たちが神仏に祈った意味が何となく分かる気がします。多くの寺社やお祭りが疫病退散の為に設立されたことはこうした状況と同じなのだと感じ入る今日この頃です。
先日私は伊勢神宮へお詣りへ行ってきました。お伊勢さんへの初詣の積りで予定していたのですが、意図せずこうした状況になりましたので、疫病退散をお願いしてきました。
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【五十鈴川】
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【内宮】
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【さざれ石】
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太陽が照っていて気持ちの良い日でした。寒かったですが、風も心地よかったです。
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そして、「みちひらきの神様」の猿田彦神社にもお詣りしました。
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【ご神田】
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お寺にお参りすることはよくありますが、神社にお詣りすることはそれほど多くありません。神社、特に伊勢神宮は遷宮といって定期的に神殿を建て替えます。そのため、文化遺産や文化財となることは無いのです。
しかし、こうした事情を考えると、かつて伊勢神宮を造営した人々は定期的な建て替えで経済状況を好転させようと意図したと考えられます。どういった状況になっても必ず決められた年が来れば建て替えが行われるということが素晴らしく経済を回していたのだと感じます。天皇が政治を担っていた時代だったからこそ、そうした考えが浮かんだのだと想像します。現在の状況を見ると、先人は上手く経済を回すように神と政治を連動させていたのだなぁ、と感心しました。
何とか神様にコロナの蔓延を防いでいただければありがたいと衷心よりお願いをしたお詣りでした。

三寅参り

節分の更新をしてから2週ほどお休みしてしまいました。申し訳ございません。
実は現在、これから勝負をしようとする人のお世話をしていまして、何か力になれることはないだろうか!?と思いました。勿論、私がやるべきことはやっているつもりですが、勝負事には少し運が必要だと思いまして、「勝運」を付けに三寅参りに信貴山へ行きました。
2月は寅の月(十二支と1年が12か月ということで、毎年変わりません)で、その中でも寅の日が今年は2月5日(水)と2月17日(月)と2月29日(土)です。その日の寅の刻(午前3時~午前5時)にお参りすると寅が「月・日・刻」と3つ揃うために「三寅の福」が来ると言われます。
というわけで、2月17日(月)に三寅参りに行きました。本来は前日から参籠すべきなのですが、2月16日(日)は私が東京で用事があったために参籠はできず、帰宅後即座に車に乗って信貴山に向かいました。
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午前3時から護摩供が始まり、護摩供の後は本堂で大般若祈祷、そして山の上に建つ空鉢護法堂へお参りして、朝食を頂いて午前6時ごろに解散、という流れでした。
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空鉢護法堂には本堂前の手水舎からお供えするお水を持って登ります。
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山道を20分ほど登りました。午前5時前ですからかなり寒いのですが、水が結構重たく感じ、汗をかいてしまいました。
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【空鉢護法堂】
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【お供えしたお水】
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【空鉢護法堂から奈良の街と月を臨む】
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山を登るとき、「ざ~んげ、ざんげ(懺悔、懺悔)」と引手の人が唱えると、他の皆で「ろっこんしょうじょう(六根清浄)」と唱えることを繰り返します。途中から多くの人が疲れてしまい、唱える声も小さくなってきましたが、皆さんで協力して空鉢護法堂まで途切れることなくお唱え続けました。
記念に頂いた七福神の色紙は京都駅の店舗に飾らせていただきました!
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このところ信貴山へ幾度となくお参りしています。ある方に「いろんなお寺さんへ行くよりも、同じお寺さんへ何度もお参りしなさい。何度もお参りしたら仏様もあなたを覚えてくださるから、お願いをかなえて下さるかもしれないよ。仏様と馴染みになることが大切です。」と言われました。仏様も人と同じで、何度もお参りする(お目に掛かる)と何となく覚えて下さるのかもしれません。いろいろなお寺様をお参りするのも大切ですが、同じお寺様を幾度となくお参りすることで何か見えてくるものがあるのかもしれません。
私がお世話している方々も、勝ち運が付いて善き縁に恵まれることを祈っております。

節分にお参りすること

本ブログにいろいろ書いていると、「神仏のことに詳しいのね?」などと声を掛けて下さることがよくあります。詳しくはありませんので、趣味の範疇を越えません。私の書いていることは体験したこと以外は伝承などの確たる証拠のないものが殆どです。体験したことは確実に残そうとして、お寺にお参りに行った際にどういう順序でどういったお経を読誦するのかを書いております。これに関しては、一部の方から大変参考になると有難がられております。今回は伝承の類の話ですが、節分について書いてみたいと思います。
本日は2月3日です。「節分」という言葉はコンビニなどでも沢山踊っています。しかしながら、この節分という日にはどういう意味があるのでしょうか?簡潔に言えば立春(2月4日)の前日です。ちなみに、来年2021年は立春が2月3日なので節分は2月2日です。
昔の暦だと立春から1年が始まりますので、節分は大晦日に近い位置づけだったようです。ですので皆様が1月に新年会を催された場合は、それは昔の暦だと「忘年会」になってしまうのですね。なかなか面白いように思います。
節分に多くの寺社で「星まつり」が行われています。一部のお寺などでは冬至に星まつりが行われます。「星まつり」は天と地が最も近いと考えられた日に天に居る神仏へ祈りを届けるために行われた祭典が始まりのようです。それが年の変わり目である節分に行われるようになったそうです。
小難しい話はここまでにして、節分にはどういうことをすれば良いのでしょうか?よく言われるのは、氏神様にお参りしましょう、ということです。誕生日には産土神社(うぶずなじんじゃ;初宮参りをした神社と考えて頂いて結構です。)にお参りしましょうと言われますが、これと同じく節分には氏神様にお参りするのが大事だと言われます。どなたでも今住んでいる家の下には必ず土がある筈です。その土には様々な気(パワー)があり、それを司っているのが氏神様なのです。
いろいろなパワースポット巡りも良いのですが、今の住まいを護って下さっている氏神様と御自身の生まれた土地の産土神様へ感謝するのは、現在元気に生きている以上当然と言えば当然なのかもしれません。
私の場合は産土神社も氏神様も八坂神社となります。というわけでお参りに行ってきました。
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神様や仏様に感謝するのは、結局はそれほど高尚なことではなくて、自分自身のルーツを見つめ直す良い機会なのだと思います。いろいろなことが毎日ありますが、気が滅入らないように魔滅(まめ)を沢山撒いて一年を魔がなくお過ごしください。

寅の日に毘沙門天様へお参り

この数年、年末になるとお寺様から頂戴する暦(こよみ)をいろいろと読んで、日の十干十二支を意識するようになりました。そんなことを意識しても何にもならないのですが、今年に入ってから日の干支をかなり意識しています。
大黒天さまの御縁日は甲子の日、毘沙門天さまの御縁日は寅の日です。大黒天さまの御縁日についてはこれまでに本ブログで取り上げたことがあります。さて、本年に入ってからの寅の日は1月12日(日)と本日1月24日(金)でした。私はこの2日、信貴山朝護孫子寺へお参りに行きました。
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一年の最初の寅の日を「初寅」、二回目の寅の日を「二の寅」と言います。「初寅」の大法要は寅の刻、つまり午前4時から、本日の「二の寅」の大法要は午前5時30分から厳修されました。共に前の日の夕方から用事が入っていたので、両日とも早起きして車に乗って大法要に赴きました。
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大法要は朝護孫子寺の三塔頭の貫主様がお揃いになって執り行われます。般若心経一巻に続いて理趣経、そして毘沙門天王和讃、各御真言、そして般若心経という流れで行われます。
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一般の参拝の方はかなり少なく、本堂の外陣でお参りさせていただきました。朝の早い時間にお参りする経験は個人的に最近多いのですが、何だか神様や仏様と昼間より近いというか、遮るものなく祈りを聴いて下さっているように感じます。
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本日は霧が濃かったですが、山の上から霧を見ると雲海のようでした。
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私はたまにしかお参りに行きませんが、僧侶の方々は寅の刻に毎日毘沙門天様にお勤めをされているのだと思うと本当に頭が下がります。毘沙門天様のお功徳を受けるためには5つのことをしなければなりません。その第一は父母の孝養です。我々の誰しも30世代遡ればのべ1億人のご先祖さまがいます。その全てを孝養することはできない。だから身近な両親を大切にしましょう、というのが毘沙門天様の教えと私は感じています。
親への感謝を大事にせねばならないと感じたお参りでした。

「夢」とは儚いもので

寒い季節です。こう寒いと体調を崩してしまう方が多いようにも思います。
僧侶の方とお付き合いすることは多いのですが、その殆どは安田念珠店を通じてお知り合いになる方です。しかしながら、そうではない方も居られます。私が大学生の頃に所属していたサークルの先輩に、大学卒業後に発心して出家し禅僧となられた方が居られます。秋の合宿の際にご指導くださったことはよく覚えています。その時は「無言のご指導」でした。
数年前に「余命三か月と言われたよ。」と笑いながら告白され、私は驚愕の思いをしたことを覚えています。それからはお電話などでお話する機会もいただき「有言のご指導」を頂きました。その和尚様が先日旅立たれました。
最期の詳細については、円覚寺派管長の横田南嶺老大師様が書かれておられますのでそちら(その1その2)にお譲りします。
昨年末、新年早々法話会をなさるご案内を頂戴していました。予定が詰まっていましたが、「行っても良いかな」と思ったものの、怠惰な私は結局伺いませんでした。後悔の念をこれだけ持ったのは久方ぶりのことです。
葬儀に伺い、最後のお別れをしました。確かに悲しかったのですが、悲しみとは何か違う「儚さ」というか「名残惜しさ」というか、そういった感情を覚えました。
勿論私も今日命を終える可能性を持っているのです。だから、一日一日、一瞬一瞬を大切に一生懸命生きねばならないのだと痛感しました。
個人的な感想で恐縮ですが、今回は追悼の記事としたいと思います。

子年のはじまりに

年が明けて最初の更新となります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
京都駅の烏丸口(JR在来線の改札口)を出てすぐのところに弊社の店舗があります。私自身はあまり詳しいことを関知していなかったのでこれまで知らなかったのです(お恥ずかしい。。。)が、通り沿いに色紙を飾ることができるスペースがあると分かりました。そういう話を聞いたので、最初は私が関心をもった戸津説法師の穴穂大僧正様の色紙を飾っておりました。そうすると私がお参りへ様々なお寺に伺った時に、知り合いになった方々から「京都駅で穴穂先生の色紙を見たよ!」とお声をかけて頂き、観音様や観音経のお話を伺うことも出来ました。
そういうわけで、定期的に色紙を変えていこうと思いました。これは完全に私の趣味の領域になってしまいますが、できるだけ分かり易く仏様の御教えを説かれた色紙を飾ることで、1人でも足を止めて下さる方がおいでになれば嬉しいと思いました。
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今回は、臨済宗妙心寺派の現管長である玄々庵 小倉宗俊猊下の干支色紙を飾らせていただきました。ねずみの画の上に「千手千眼」と書かれています。子年の守り本尊が千手千眼観音さまであることに由来しているのが理由と思われます。子年は干支の始まりの年であり、何事にも心機一転取り組むいいきっかけとなる年です。そして、ご自身の努力が他人に評価されなくとも、実は誰か(これを仏教では観音様と云う)が見聞きしていてくれるのだ、ということを心に留めておいて欲しい――そう感じます。
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守り本尊のお話で思い出したのですが、弊社の本店の前には大きな阿弥陀様(誓願寺様の御本尊様)がおられます。何故だか弊社の本店に勤務してくださる方は亥年生まれが多いのです。意図したわけではないのでしょうが、やはり仏様と云うのは「御縁」の大切さを事象で示して下っているのだなぁ、と感じた次第です。
雑多なことを書きましたが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

念じることの大切さ

1年が経つのが早いですね。今回で本ブログの本年の更新は最終となります。
今年一年もお祈りすることが多かったです。ただ、昨年に比べると、何かご利益(プラスのこと)を求めるよりも、何もなく無事に過ごせることを願ってお祈りした一年だったように感じます。お陰様で私に大きな病気や怪我はなく、また弊社も大きな災いが巻き起こることはなく、何とか年を越せそうです。
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お祈りをすることはすぐに結果が出ないので、2度や3度程度で止めてしまいがちです。ですが、続けることて何か小さな「花」が開いているのではないでしょうか?
この「花」は何かは分かりません。ただ、「信頼」や「信用」といった一朝一夕に得ることのできない何かのような気もします。
まずは自分自身が今生きていることに感謝する。これが祈りの基礎だと感じた一年でした。
よいお年をお迎えください。

弘明寺観音

本年も後10日余り。「歳月人を待たず」とは正にこのことだと思います。
百観音を目指している私は上京した折に時間を見つけて坂東の札所巡りをしています。今回は横浜の弘明寺(ぐみょうじ)さんへお参りおした模様をご紹介します。
横浜市営地下鉄の弘明寺駅から商店街を抜けると弘明寺さまはあります。
【商店街から弘明寺を臨む】
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【仁王門】
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【本堂へ繋がる階段】
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この急な階段を登って本堂に到達します。
【本堂】
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当日は8が附く日でしたので、午後二時から護摩供が行なわれるとのことで極めて多くの人が参拝されておられました。
護摩と言うと一般的には不動明王さまや愛染明王さまにご供養するものだと私は認識しています。護摩壇はお不動様の口で、そこに願いを書き込んだ護摩木を投じて煩悩や穢れを払い、諸願成就を願う、というものと認識しています。観音護摩についてあまり詳しく知りませんが、観音様はいろいろな者に変身するので、不動明王さまに変身すると見たててお護摩をしておられるのでしょうか?
観音護摩はいろいろなお寺で為されているようです。薬師如来をご本尊として護摩を焚く薬師護摩もあるようです。私は僧侶ではありませんので詳しくは分かりませんが、いろいろな発見があり、今後の調査課題となるように思います。
仏教は奥が深いものがあるなぁ、と感じたお参りでした。

成道会に参列~鎌倉・円覚寺へ~

本ブログを見返すまでもなく、この1か月ほどは毎週上京しているような気がします。私自身は嘗て、そう遠くない過去に自宅に籠って勉強している時期がありました。別段身体の自由は制限されてはいませんでしたが、やはり周りの目が気になって、できるだけ自室からは出ないことが多かったように思います。その時期に思ったことは未だ記憶にしっかりと焼き付いています。「このまま死んでしまったら世間に私は知られることのないまま歴史は進んでいくのだろうなぁ。」と。おかしなことのようですが、やはり”人”というのはインプットしたものをアウトプットして行ってこそ初めて”人間”になるのだと思います。難しくはない、ただ人とおしゃべりするなどの触れ合えば良いだけです。最近毎日予定が立て込んでいると、嘗て感じたこの気持ちを忘れてしまっていました。
先週末の12月8日(日)、東京で用事があったので、その日の朝は鎌倉の円覚寺さまにお参りに行きました。当日は午前9時から日曜説教会(第二日曜日に開催)が開かれ、そして偶然にも12月8日でしたので成道会が日曜説教会の後に厳修されました。
【紅葉の綺麗な参道】
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日曜説教会で青松軒老師様は、「お釈迦様が悟りをひらかれたことは尊いことであるけれど、その悟りを梵天(ブラフマン)の指図によって多くの人々に説かれたこと。これこそが実に尊いことなのです。そうでなければ仏教という教えは今まで伝わってこなかったのですから。」という趣旨のことを仰いました。(メモ書き程度なので、一言一句正確とは言えません。詳細はこちらをご覧ください。)
【山門】
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このお話を聴いて、人と関わっていくことが何にも増して大事なのだという思いを一層強くしました。高尚な理論を理解しても、それを多くの人々に伝えられなければ、ただ単なる自己満足で終わってしまう。科学のことは学者に、お経のことは僧侶に、身体のことは医者に、と言った具合で専門家に話を伺って、それを自分の中で解釈して人に伝えていくことの大切さを感じました。何とも大きな「気付き」を得ました。
【成道会厳修された佛殿】
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日曜説教会の後の成道会では青松軒老師様の偈頌奉読を拝した後、楞厳咒(りょうごんしゅ)というお経をお唱えしました。(法要の様子はこちら)私は滅多にお唱えする機会がありませんが、自宅にあった経本を持って一緒にお唱えしました。円覚寺派はお経の節回しが独特のようです。参列した際に頂戴した案内文には「『山節』と称する独特の節回し」との記載がありました。長いお経ですが、所々節回しについて行けないところがありました。「門前の小僧習わぬ経を誦む」よろしく、私はどうも京叢林の節回しに慣れてしまっているようです。環境とは不思議なものです。
【門が額のようです】
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お釈迦様が教えを広められたこと、その尊さを感じることができたお参りでした。何だか過去の自分と対話しているような気がして気持ちの良い上京となりました。