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念珠製造と火除け

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本日、一部の地域では「春一番」が観測されました。春の訪れを感じさせる季節になりました。
さて、先週ご紹介した節分のお詣りから、本日は念珠製造と火除けの関係性をお話ししてみたいと思います。
念珠は糸と珠を組んで製造するものです。火とどう関係するのか、分かりにくいところがあると思います。実は念珠製造の際、火を使うことがあります。
切房(きりふさ)という種類の房があります。房には他に撚房(よりふさ)という種類があります。例えばこちらの念珠の房は撚房ですが、こちらの念珠の房は切房です。撚房はその名の通り糸を撚って作っておりますので、ほつれにくく耐久性があります。一方の切房は好みの長さに“切って”房を成形しますのでこの名が付いたと考えられます。どちらの房も絹糸を使って作っておりますが、撚房は先程申しました通り、元の絹糸を何本も撚って1本の糸を作っているため耐久性があり、ほつれにくいものです。一方の切房は元の絹糸を撚ることなくそのまま房に仕立てますので、どうしても絡んでしまいます。
イメージしやすいように女性の髪形を例としてご説明すると、撚房は三つ編みの髪型、切房はストレートヘアーというところでしょうか。ストレートヘアーの場合、寝起きは櫛を通して、ミストをかけて……などのお手入れを必要とします。念珠の房も同じだと考えて頂ければ良いです。
切房をお仕立てする場合、右の写真の薬缶のような道具を使います。水を入れて沸騰させ、水蒸気で房を伸ばします。この工程を「湯のし」と言います。この「湯のし」を行うと、一本一本の絹糸がシャキとして、綺麗な切房になります。
念珠は珠だけでなく、房も重要な部分です。切房を用いた念珠は臨済宗などでは高僧の方々が法要の際に用いられます。
念珠を製造する過程では火を用いることが不可欠であり、そこに火除けへ執心する理由があるのです。

節分のお詣り(その2)

前回の雪化粧した愛宕神社の写真に「神々こうごう しい」とのご感想を述べて下さった方が居られました。ありがとうございます。雪に反射した陽の光が御社おやしろ を照らし、確かに神々しさがありますね。こうした自然の風景から古人は神を感じたのかもしれません。


さて、前回の続きのお話をしましょう。
愛宕山を下山した私は、京都御所を目指しました。次なる目的地は京都御所の東に位置する清荒神きよしこうじん 護浄院ごじょういん です。京都市バスには「荒神口こうじんぐち 」というバス停があり、そのバス停から程近くにこのお寺はあります。
「清荒神」と聞くと、特に関西の方は宝塚市にある「清荒神清澄寺」を思い浮かべる方が多いと思います。阪急宝塚線にも「清荒神」との駅名があり、清澄寺様への参拝の方に多く利用されています。
私がお詣りしたのは清荒神護浄院様です。こちらは、天台宗のお寺なのですが、境内に鳥居があります。これはまさに江戸時代までの神仏習合の名残を目にできる好例です。
清荒神護浄院の北側には「清浄華院しょうじょうけいん 」という浄土宗のお寺があります。この2つのお寺は共に名前に「清」「浄」が入っています。これは、平安京の鬼門を護る比叡山の回峰行者が行を満行し、御所に参内する際に身を清める(きよ める)ためのお寺だから、との理由です。


私は、護浄院様で神棚の御扉にお祀りする御神札を頂きました。三宝荒神は「かまど の神様」で、火事から御守り下さるご利益りやく があるそうです。
お店に戻り、神棚に愛宕神社と清荒神護浄院の御神札をお祀りしました。
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向かって左が愛宕大神さま、右が三宝荒神さまです。

こうして、これから来年の節分までの1年間、火事から御守り頂けると信じております。
2回に渡り節分のお詣りをご紹介して疑問を持たれた方が多いのではないでしょうか!?というのは、念珠を製造販売する弊社がなぜ火除ひよ けに殊更熱心なのか?という点についてです。


これについては、また次回にお話することに致しましょう。

節分のお詣り(その1)

この数週間は少し難しい話題が多かったように思います。今週は、一旦小休止です(笑)。


私は、前回の記事を更新してから、山登りに出かけました。どこの山か!?京都市の北西に位置する愛宕山(あたごやま/あたごさん)です。落語がお好きな方は「愛宕山(あたごさん)」という演目で良くご存知かもしれません。

桂米朝「愛宕山」

その日は2月3日。そう、節分の日でした。
愛宕山の山頂には愛宕神社という神社があります。「愛宕神社」という名前の神社はWikipediaによると全国にかなりの数があります。それらの神社の総本社が京都の愛宕神社なのです。
2月3日当日は、京都市の最高気温が12℃、最低気温4℃と2月としては暖かい日でした。清滝口きよたきぐち から登り始めた私は、一歩一歩足下を確認しながら登って行きました。しばらく登ると、足下がぬかるんできました。もうしばらく登ると、そこは一面に雪で覆われていました。中腹で一面の雪でしたので、そこからは山頂に向かうほど雪が深くなりました。
清滝口から1時間25分、愛宕神社の本殿下の階段に到達。そこはもう銀世界でした。
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本殿でお参りをして、御神札を頂きました。
御扉みとびら の神棚にお祀りする御神札と下の画像の火伏札を頂きました。(神棚については次回、ご紹介致しますので、お楽しみに。)
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愛宕神社は火伏せの神様として広く知られ、信仰を集めています。本来は7月31日に「千日詣り」をするのが良いのですが、私は節分にあわせてお詣り致しました。
いにしえ こよみ では立春から一年が始まる、という考え方をしていました。節分は立春の前日ですので、節分にそれまで1年の間で頂いた御札をお返しし、新たな御札を頂くことで新たな年を迎えることができる、と考えられてきたのだと(私が勝手に)理解しています。そして、愛宕神社の御神札を頂くことで、今年1年は火事などに遭わないようお守り下さる、と願っております。
雪道を下山することに骨が折れましたが、何とか下山し、もう1件のお詣りに向かいました。。。が、それは次回ご紹介することと致します。

「念珠」の「念」について(その2)

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袖振り合うも他生の縁」という故事があります。故事ことわざ辞典によると、「知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。」との意味であると書かれています。現代のイメージで言うと、電車で偶然に隣の席に座るのも因縁によるもの、というところでしょうか。
人との出逢いだけではなく、物との出逢いにも不思議なものがあります。私は古本を購入することが多いのですが、そこに予期せぬ書き込みがあって驚くことがあります。
前回ご紹介した横田南嶺老大師様のご著書にたびたびご登場なさる坂村真民さかむらしんみん 先生(1909年-2006年)という仏教詩人が居られます。坂村先生の詩に興味を持った私は全集を購入してみることにしました。つい昨年のことです。購入してビックリ!全集第七巻の見開きに坂村先生直筆のサインがあったのです!!
(右の画像をご覧ください。)
そこには「念に生きる」と書かれていました。はて、どういう意味なのか?
坂村先生の詩の中には「念」という語が入った詩が数多くありますが、ここではその名も「念」という詩を引用してみます。


花が咲くのも念
鳥が鳴くのも念
宇宙が回転するのも念
太陽が出現するのも念
だからわたしは
手を合わせて見
手を合わせて聞き
手を合わせて拝むのだ

坂村真民『坂村真民全詩集〔第七巻〕』(大東出版社、2001年)57頁
さてさて、「念=今を感謝する心」という前回お示しした私の解釈はこの詩にうまく当てはまっているでしょうか?
私はこの「念」という詩を(自分勝手に)解釈してみました。
花は咲くことに今この瞬間一生懸命、鳥も鳴くことに今この瞬間一生懸命、宇宙だって、太陽だってそう。だから、私たち人間も手を合わせて、心を落ち着かせ、今を一生懸命に生きるのだ。
ですから、「念に生きる」とは「今を一生懸命に生きる」ということなのではないか、と私は考えています。
未来のことが心配になるのが世の常ですが、まずは“今”を一生懸命に生きないと“未来”はやって来ません。
何より大切なのは今を一生懸命に生きること。当然のことのようで、実はこれが一番難しいことなのかもしれません。
「念」とは何か。私は「今を感謝する心」、そして「今を一生懸命に生きること」である、と考えています。

「念珠」の「念」について(その1)

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先週は阪神淡路大震災アメリカの新大統領就任の2つの話題から「祈り」を考えてみました。私自身の「祈り」に対する考え方を開陳した上で、今週からは「念珠」について、1文字ずつ考えてみたいと思います。
(弊社がなぜ「念珠」というのかについては、こちらをご覧下さい。)


今日のテーマは「念」です。
「念」を辞書で引くと、仏教用語であることが分かります。
〔仏教用語〕(梵語smṛti)心の働きの一つ。物事をしっかりと記憶すること。また一念というときは時間の単位で、一般に非常に短い時間をいい、十念などというときは、仏教の瞑想の一方法をいう。
『ブリタニカ国際大百科事典 Quick Search Version』(ブリタニカ・ジャパン、2008年1月版)
分かったような、分からないような。。。
私はあまりよく分からなかったので、もう少し調べてみました。
お経の中で非常に短いものに『延命十句観音経』というお経があります。このお経に分かりやすい解説が付された書籍があります。『祈りの延命十句観音経』という書籍で、著者は鎌倉・瑞鹿山円覚寺管長 横田南嶺老大師様です。
(右の画像は千眞工藝謹製の「2016年 日本の心 墨蹟日暦」に掲載された横田南嶺老大師様御寫経のものです。)
この書籍の「念念従心起」の節から引用してみます。
生きる事は息をすること、食べること、出すこと、眠ることにほかなりません。そのことに心をこめることです。
〔中略〕
心が外に向かうのを迷いといい、自分のうちに向けて見るのを悟りと古人は言いました。今一度、こうして見たり聞いたり、食べたり感じたりしているこのものは何か、立ち止まってみたら如何でしょうか。
心あればこそ、いのちあればこそ、ものを見、耳で聞き、舌で味わい、あれこれ思うことも出来ます。その心こそ、そのいのちこそ仏さま、かけがえのない尊いものです。
このいのち、心の貴さに気がつけば、必ずこれは自分ばかりでは無い、まわりの人もみなこのいのちを生きている。人だけではない、庭の草も花も、鳥や獣達も皆この心をもって生きている。この心に自ずと手が合わされます。生きていのちのあること、これほどすばらしいことはありません。
〔中略〕
みなひとりひとり仏心をもって生まれてきている、この仏心の貴さに目ざめることにほかなりません。みな仏心をもった仏さまなのです。

横田南嶺『祈りの延命十句観音経』(春秋社、2014年)122頁~125頁
引用の都合で、省略してしまいましたが、是非ともこの書籍を手に取ってお読みになってください。
この文章(書籍)から、「念」とは「ひとりひとりが今を感謝する心」なのではないか、と私は考えています。
以前、毎日生きていることが膨大な偶然の上にあるのだ、ということを書きましたが、今を生きていることに感謝する、この心こそが「念」なのではないか、と思うのです。
今日は、『延命十句観音経』を手掛かりに、「念」について考えてみました。また次回も「念」について考えてみたいと思います。

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祈りの延命十句観音経

著者:横田南嶺 
出版社:春秋社
発売日: 2014/03/11
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL1:http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-14426-8/
(春秋社)
参考URL2:2014年3月10日 新刊「祈りの延命十句観音経」
(居士林だより|円覚寺)

 

アメリカ新大統領と「祈り」

本日、アメリカ合衆国では新たな大統領が誕生しました。新大統領の行動や政策は世界中に影響があり、様々な期待や懸念を持って見守られています。
アメリカで起きた「トランプ現象」を見て、「別の国のことだ。」と思ってしまうのではなく、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
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日本に住んでいる私達は、世界の中では大変恵まれています。水道の水を飲めますし、日が沈んでから街を歩いても命の危険はありません。(当然のことのようですが、日本以外ではあり得ないことです。)コンビニエンス・ストアに行けば食べ物、飲み物が揃います。何て便利な環境なのでしょうか!!
しかし、私達が平穏に過ごす今この瞬間にも世界の中に飢えた人が居るのは事実です。だからといって、私達にも普段の生活がありますから、苦しむその人達の元へ駆け付けて助けてあげることは現実的にできません。では、どうすれば良いのでしょうか?
トマス・ポッゲという思想家が居ます。彼は『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権〔原著題:World Poverty and Human Rights: Cosmopolitan Responsibilities and Reforms〕』という本を書いています。この本では世界の貧困を解決するため、現状分析と解決策の提案が為されています。この本の主張の1つには、先進国の人々が現在のグローバルな秩序を支持することで、遠く貧しい人々への人権侵害をしている、というものがあります。
なかなか難しいです。私たちは、知らず知らずのうちに人権侵害をしている、と言われているのです。そんなつもりはないのに。。。
「自分自身の生活が第一」であることは現実的には致し方ないのです。しかし、利己的になり過ぎず、思いやりの気持ちを持つこと。これが、たくさんの人の集まりである社会を円滑に進める秘訣なのではないでしょうか?
自分だけのこと、自分の国だけのこと、これに固執し過ぎると良い結果はでないのではないか、と私は考えます。
傳教大師・最澄様がおっしゃった「忘己利他慈悲之極」を胸に抱き、手を合わせる一時ひとときを持つ余裕があれば良いのではないか!?
世界の流れが劇的に変わる今、「祈り」の大切さを私なりに考えてみました。

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なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権

著者:トマス・ポッゲ 
監訳者:立石真也
出版社:生活書院
発売日: 2010/03/25
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL:http://www.seikatsushoin.com/bk/052%20pogge.html
(生活書院)

阪神淡路大震災の日に

本日は阪神淡路大震災から22年の日です。
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昨年2016年の熊本地震、2011年の東日本大震災、2004年の新潟県中越地震、、、20年以内に限っても大地震は数多く発生しています。
地震を予知できるようになれば被害も小さくできるかもしれません。ただ、先日の大雪も降ることが事前に分かっていましたけれど、多少の混乱がありました。ですから同じように、地震を予知できたとしてもやはり被害をゼロにすることは難しいのかもしれません。(もちろん、気象や地震による被害を減らそうと日夜研究されて居られる方々がおいでになり、そうした方々のご尽力で少しでも天災の被害を小さくできればと私は願っております。)
こう考えると、やはり「祈る」しかないのでしょうか?「祈り」は効果が見えにくいものです。祈ったからといって、即座に願いが叶うとは限りません。では、どうすれば良いのでしょうか?
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この問いに対する答えは分かりません。それでも私は、普段から祈ることが大切だと考えています。祈りを始めるきっかけは人それぞれですが、毎日手を合わせる習慣を作ることが、大変な状況の時に生きている私達を支えてくれるのではないでしょうか?
阪神淡路大震災で亡くなられた大勢の御霊に手を合わしつつ、生きている私達にとっては手を合わせる習慣が大切なのではないか、私はそう思うのです。

松竹梅――日本人と「3」

お正月もそろそろ松の内が明けます。お正月には家の門に門松を飾る慣習がありますが、最近はあまり飾るご家庭が多くありません。
弊社も門松は略し、簡易ではありますが、本店の入り口付近に松飾りをしております。右の写真をご覧頂ければお分かりの通り、竹の上に松が生けられ、梅が垂れております。
門松ではなくても松飾りには必ず「松竹梅」が揃い入っています。「松竹梅」と言えば吉祥を表す象徴ですよね。同時に日本では「松竹梅」が等級を表すものとして用いられてきました。鰻屋さんやお寿司屋さんで、例えば「松御膳」や「梅コース」といったメニューを目にされた方も居られるのではないでしょうか?
等級としては、
松>竹>梅
となります。この等級があるので、松竹梅の全てが揃い入っていても「門“松”」や「“松”飾り」と「松」をメインにして言うのではないか、と私は考えています。(中国から日本に「松竹梅」がどのように受容されてきたのかは、こちらのサイトをご覧下さい。)
日本には「松竹梅」だけではなく、3つの等級を持つ概念がいくつかあります。「真行草(しんぎょうそう)」や「守破離(しゅはり)」などです。
この2つについて、それぞれの等級は、
真>行>草
守<破<離
〔寧ろ、「真→行→草」、「守→破→離」と理解した方が良いかもしれません。この辺りについて現在勉強中です。〕
となります。
「松竹梅」と「真行草」と「守破離」を一纏めにしてしまうことは、それぞれ趣が違うので避けるべきかもしれません。しかし、3段階にランク付けをする概念がいくつも存在することは、もしかすると日本人が「3」段階に分ける考え方に親しみを持っているからかもしれません。
日本人と「3」の関係について、今後も考えていきたいと思います。

お餅の話

新年明けましておめでとうございます。
本年も本ブログ共々、安田念珠店をお引き立ての程を宜しくお願い申し上げます。


新年を迎えて、お雑煮を召し上がった方も大勢居られることと思います。
全国各地のお雑煮にはそれぞれ特色があって面白いですよね。そんなバラエティーに富んだお雑煮ですが、共通しているのはお餅が入っていることです。「お餅には神様が宿る」と言われ、お餅を食べることで神様からの恩恵を得ることができる、という意味が込められ、お正月に食べるそうです。

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実は、お餅が悟りの境地だと説かれたお話があります。『碧巌録』という仏典の第七十七則の本則に以下のようなお話があります。

【原文】
僧、雲門に問う、如何なるか是れ超佛越祖ちょうぶつおっそ の談。門云く、餬餠こびょう
【現代語訳】
偉い偉い高僧であった雲門文偃(うんもんぶんえん)の所に1人の僧侶がやってきました。その僧侶が、雲門に尋ねました。「仏を超え、祖先をも越えるものとは何でしょうか?(悟りの境地とは何でしょうか?)」と。雲門は「それは胡麻餅だ。」と答えました。
(訳文は春見文勝『提唱碧巌録(全自筆)』(私家版、1982年)を参考に私が行いました。)

お餅が「悟りの境地」とは!
お正月にお餅を召し上がった皆さんは悟りの境地に一歩近付いたことになるのです!
このお話の表していることは悟りとは実は身近なところにあるのだ、ということなのです。
野に咲く花や風の囁きなど、身近なことに注意を払えば悟りへの「気付き」を得ることができるのですね。
今日はお餅から悟りについて考えてみました。

新年に向けて

クリスマスが終わり、間もなく新年を迎えます。クリスマスツリーから門松へと街の装いが急激に変化するこの1週間は「日本らしさ」を象徴する1週間ではないでしょうか?

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カレーライスにナポリタンそれにラーメン、洋食や中華として一般的なこうした食べ物は実は日本で生み出されたものです。インド・カレーやパスタなどといった基礎となる料理は当然海外から日本に入ってきたものですが、それを日本人の舌に合わせて作り出したのがこうした食べ物なのです。
仏教もキリスト教も、日本で生まれた宗教ではありません。それぞれ、海や陸の道を通って伝わってきました。
仏教やキリスト教が入ってきた当初はそれぞれ排斥されました。仏教を巡っては聖徳太子が皇子の時代に起きた蘇我氏物部氏争い、キリスト教を巡っては江戸幕府によって行われた踏み絵にそれぞれ象徴されます。その後、時間を掛けて仏教やキリスト教は日本文化に適した形に変容し、受容されたのです。それは決して熱心な信仰を強制するものではなく、カレーライスやナポリタンを食べるように、時折接するという姿勢です。まさにクリスマスがその好例です。
日本はこうした「フィッティング能力(社会に適した形に変容させ受容する)」に長けていると言えます。その基礎となっているのが、「八百万神」の思想なのだと私は考えています。どこにでもあらゆるところに神が宿る、この考え方が様々な宗教を受容した理由なのではないでしょうか?
新年を迎えて初詣に向かわれる方も多いと思います。神社で柏手を打つ時、その心は仏様を拝む心と同じであると気付いて頂ければ幸いです。
皆様、良いお年をお迎え下さい。