2019 | 春は花 | Page 2

安田念珠店 オフィシャルサイト

春は花

先ず隗より始めよ

台風十九号は再び日本列島に甚大な被害をもたらしました。被害を受けた方も少なからずおられることかと存じます。何より皆様方の御平安をお祈り申し上げます。
秋が訪れているように感じます。柿がなっていました。
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何年前から行われているのか不明ですが、弊社では毎年「地蔵流(じぞうながし)」という先亡者供養会を毎年行っております。開眼して頂いた地蔵菩薩さまの印判を水に溶ける紙に押印し、それを川に流すのです。(川に流すことに関しては許可を得ております。)
私は今年、個人的に外国人留学生と交流する機会が多く、先立っても中国人とフランス人の留学生と一緒に比叡山にお参りに行きました。日本人の友人とお参りに行く感覚で私は赴いたのですが、彼らは私が般若心経を読経するとそれに合わせて読経したのです!!平素から要らぬ老婆心を発揮する私は行きの道中で経本を見せながら「こういうお経があって、こういう意味があるそうですよ!」と解説をしてはいましたが、まさか一緒に読誦してくれるとは思いもよりませんでした。日本人と一緒にお参りした時には感じ得なかった衝撃でしたので、正直に驚きました。
地蔵流へは弊社に有縁の方々が参加して下さっています。今年は台風接近の最中でしたので、大雨と暴風の中での開催でしたが、何とか押印した地蔵菩薩さまを流すことが出来ました。今回の地蔵流へ参加して、弊社はより一層努力しなければならないと感じました。
弊社に有縁の方々ですので、信仰心が強い方々の集まりと思っておりますが、先に挙げた留学生たちの真摯に祈る姿勢とは少し違った印象を受けました。長年続いていることの惰性なのか、主催者の人徳の無さなのか、真相は分かりませんが、日本人と留学生たちの違いを目の当たりにして切迫感を感じました。
祈りとは強制されるものではありませんが、祈るのであれば真摯な姿勢が必要であり、それを決して忘れてはならないのだと私は考えます。「先ず隗より始めよ」の言葉通り、身近な方々から手を携えてお祈りして参ろうと感じた法会でした。

十月を迎えて

十月を迎えました。別名は神無月です。
なぜ「神無月」というのでしょうか?一説では日本国中の神様が出雲にお集まりになり、ご不在なので「神無月」というそうです。また別の説では「無」は「の」の意味であり、「神無月」とは「神の月」と解釈できるものだという考え方をします。
とにもかくにも、昔の人々は生活の中で「神」を感じていました。それが月の名前に現れているのです。「神」と言っても実際には身近な自然現象を拝んでいたのです。
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海を臨みながら日の出を見ると、多くの先人が手を合わせた意味が少しわかります。日々自然に感謝して毎日を過ごしていきたいと感じました。

気を保つために

我が家はテレビがかなり好きな家です。私も同世代に比べるとテレビを観る方だとは思いますが、誰かが観ている番組をちらっと観る程度です。何か番組をじっくり観るというわけではなく、CMを結構観ている方だと思います。
9月23日に秋の彼岸会法要へ私は菩提寺に行きました。法要の後、ご住職様がお説教をされたのですが、昨今の「煽り運転」に絡めてお話をされました。「煽り運転」は危険ではありますが、テレビの通信販売で「限定○○個」と言ったり、「今だけ半額」と言ったりすることも人を急き立てる「煽り」の一種ではないか、と。また日韓関係もお互いの「煽り」があったのではないか、と。考えてみれば深い洞察だと思いました。
「煽り」をしてしまうのはやはり心の病なのだと思います。煽り運転などの身近で起こり得る例だけでなく、外交関係などでも気持ちの行き違いというのはあるのだなぁ、と感じました。お説教は「難しいかもしれませんが、心を落ち着かせるためにお念仏をお唱えしましょう」と締めくくられました。浄土宗のお寺なので話のオチは教義に沿ったものでした。
そこで、最初の話題です。昨日テレビでCMをちらっと観て、ビッケブランカさんの『Ca Va?』という曲を耳にしました。『Ca Va?』とはフランス語で「元気?」という意味です。
飛行機で自分のオレンジジュースが可哀想にかかってしまった男性が、自分の身の不運を気にせずこの曲を聴いています。
個人的な意見ですが、いい曲ですよね。気を病むこと(=病気)なく、平常の心、つまり”元”の状態の”気”を保つ(=元気)ことが体現されているCMだと思いました。
煽り運転などが問題となる社会が急き立っている状態を少しでも解決するのは、お念仏も良いですし、こうした現代の曲を聴くことも大事なのだと思いました。

甲子の日のお参り

毎日毎日いろんなことがあります。朝のニュース番組で星座占いなどを観る方も多いようですが、あの占いも天体を基にした星座が基準です。
十二支は年で認識する方が多いようですが、日にも十干十二支があります。今日は甲子(きのえね/こうし)の日でした。甲子園球場で有名な甲子ですが、甲子の日は大黒天様の御縁日です。本日私は我が家の大黒天様をお連れして比叡山にお参りしました。
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実は大黒天の御縁日にお参りするのは初めてだったのです。そのため、お経にも初めて接しました。今まではご真言を唱えるだけでしたが、「大黒天神経」という御経本に即してお勤めしないといけないのだと分かりました。大黒天さまは商売繁昌というご利益が有名ですが、子孫長久というご利益があります。弊社はこれまで長くお念珠を販売して参りましたが、これを今後もずっと続けねばなりません。そのために、弊社の維持に必要な人材を絶えることなくお与えください、というお願いを込めて大黒天様を祀っております。
金銭ももちろん大事ですが、何よりも大事なのは人だと思います。人材を「人財」という漢字に書く方もいます。「人は財産である」とはその通りだと思います。
本日は人の大切さを感じたお参りでした。

赤山禅院へちま加持

本日9月13日は本年の仲秋の名月の日です。
節句もいろいろありますが、奇数の重なる日、つまり割り切れない日は気(パワー)が強いと考えられ、様々な節句があります。


1月1日:元日
1月7日:人日じんじつ の節句/七草
3月3日:上巳じょうし の節句/桃の節句
5月5日:端午の節句/菖蒲の節句
7月7日:七夕しちせき の節句/笹の節供
9月9日:重陽ちょうよう の節句/菊の節句


こうした節句を経て、季節が移り替わると考えられてきたのです。結構面白い考えだと思います。ちなみに節分(2月3日)は2月4日から新節(新年)が始まるので、その前日で2月3日です。2月4日は2も4も偶数ですので、気(パワー)が一番弱いためにこの日になったのだと考えられます。(2月2日にすると、前日が2月1日となり、御朔日[月の始まりの日]を大事にする考えとそぐわない為、2月3日が節分になったのではないかと思います。勿論、太陽の位置を基準に考えられていたので、数字だけが大切なわけではないのでしょう。)
さて、本年は本日9月13日が仲秋の名月でしたので、その日に併せて赤山禅院でへちま加持が行われました。へちま加持とは「ぜんそく封じ」といわれるものです。医学では治癒できない病気を比叡山の大阿闍梨様のお加持によって「気を整える」効用があるのと考えられています。
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私は今年初めて参列しましたが、平日にもかかわらず多くの参拝者が居られました。
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頂戴したへちまを土に埋めて、21日間毎日お参りすると1年間無病息災に過ごせるとのことです。
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「病は気から」と言いますが、病気の方々が大阿闍梨様のお加持を受けて、気を整えることで病から回復するというのは、科学的にはどうなのかは分かりませんが、首肯できることだと感じました。何事もマイナス思考で考えるとどんどんと悪い方向へ行ってしまいますが、プラス思考で考えるためにお加持でパワーを頂戴することは大切なことだと感じました。

伊根湾遊覧

遊びと仕事は紙一重です。私はいろいろな所へ行くことがありますが、それは遊びと言えば遊びになるし、仕事と言えば仕事となるし、捉え方次第です。「傍から見るといつも遊んでいるように見えるのだなぁ」と強く感じたのですが、それも捉え方の一つなのでしょう。
先週、京都府の北部の伊根町へ行きました。京都府の漁獲高の半分以上を占める漁港です。「伊根の舟屋」で有名な町です。
【伊根の舟屋】
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【遊覧船からみた海】
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遊覧船に乗って伊根湾を眺めました。伊根湾に浮かぶ青島(あおしま)には蛭子神社があると遊覧船で解説が流れていました。伊根の漁民にとっては神聖な島とのことです。
【青島】
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【丘の上から伊根湾を臨む】
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この神聖な島は嘗て舞鶴鎮守府に買い上げられて軍事利用された過去があります。舞鶴から車で伊根まで移動するのは約1時間半ほどかかりますが、船であればより早く到着できるのでしょう。
旧日本海軍の史料や旧跡などを見ていると、神社に関係するものをよく目にします。海上での安全はやはり祈りが必要だったのだなぁ、と感じます。日本の神話に登場する海の神「ワタツミ」への信仰と何か関係しているのでしょうか?
信仰というのは安全や必勝というものから生まれてくるものであり、何とも不思議な感情であると感じました。科学が発展した今日であっても信仰が存在するのは、物事の捉え方には多様な面があることの証左かもしれません。不思議な感覚を覚えた一時でした。

観音様のご慈悲~戸津説法拝聴~

8月も本日で終了です。今年は暑くもありましたが、同時に豪雨の多い8月でした。
昨年もご紹介しましたが、天台宗では毎年8月21日から25日に掛けて琵琶湖畔の東南寺(とうなんじ)というお寺で戸津説法(とづせっぽう)という法華経を高僧が説く会が開かれています。(今年の様子はこちらをご覧ください。)
本年の説法師は京都府亀岡市の穴太寺のご住職の穴穂行弘大僧正様でした。穴太寺は本ブログでもご紹介したことがある通り、西国観音霊場の第21番札所です。観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)を説法された第4日目に伺うことができなかったのが残念だったのですが、他の日のご説法を拝聴して、本年も新たな発見がありました。
穴穂大僧正様は長い歴史のある穴太寺を護ってこられたこともあり、受け継いだものを後世に引き継ぐということに注力されておられることが分かりました。特に昨年の台風に際して、事前に手入れをしていた境内の木々はお堂に影響を与えることは無かったけれども、大丈夫だろうと思っておられたお庭の木が塀を壊してしまう結果となったことを反省しておられました。「物が壊れる」ということを残念に思っておられる面もあるかと思いますが、それ以上に歴代のご住職様への申し訳なさというものを感じておられるように思いました。脈々と引き継がれてきたものを護っていくことは大変なことなのだと感じました。
【今回の記念色紙】
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お説法の5日間の天候は大雨が降ったり、一転して快晴であったりと目まぐるしく変わりました。ただ、例年に比してそれほど強烈な暑さを感じなかった5日間でした。このお説法の天候に触れ、私は観音経の一節を思い出しました。「澍甘露法雨 滅除煩悩焔(観音さまのお慈悲は甘露の法雨となって降り注ぎ、私たちの燃え盛る煩悩の火焔を滅して除いてしまう)」という一節です。観音様にずっと仕えてこられた穴穂御住職様のご功徳が天候に現れたのかなぁ、と感じました。
法華経を学ぶというのは極めて難しい大変なことでありますが、こういったお説法を聞くと、法華経は難しいものではなく身近なものなのだと感じました。

飯室谷不動堂・地蔵盆と放生会

本日、近畿地方は雨天でした。暑さが少し和らいだように思います。
本日、私は比叡山飯室谷不動堂で行われた地蔵盆と放生会にお参りしました。雨天でしたので、回向三昧堂の中から法要が行われました。
【回向三昧堂】
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【回向三昧堂の中から地蔵堂を臨む】
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【地蔵堂】
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法要の後に雨が落ち着くまでの間、大阿闍梨様から法話がありました。お地蔵様という仏様は私たちの傍らに寄り添って下さる仏様ということです。そして安全な方へと私たちを導いてくださるそうです。この法話を拝聴して、不動明王様やお地蔵様という仏様は私たちの安全を守って下さる優しい仏様なのだなぁ、と感じました。ご利益(りやく)というと「何も起こらない(無事)」ことなのだと思いますが、この「無事」であることがどれほどありがたいことなのかを改めて感じました。現在でも道を歩いているだけなのに突然車に轢かれて亡くなるなどということが実際に起こります。家から出掛け、その日無事に帰宅できることがどれだけありがたいことなのか、感謝しなければならないと思いました。
【放生会で稚魚を放流した池】
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その後、私たちが日々いろいろな命を頂いて生きていることに感謝し供養するための放生会が行われました。鯉の稚魚を池に放流しました。大阿闍梨様のお話によると全ての稚魚が生き残るわけではないそうです。鳥に食べられたり、池の中での競争に生き残れなかったりする稚魚もいるそうです。ただ、体が小さくとも果敢に餌に飛びついていく稚魚は生き残っているそうです。生きるために一生懸命であることが大切なのだと教わりました。
【御牘】
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御牘(おふだ)を頂いて帰宅しました。日々生きていることに感謝しなければならないと感じたお参りでした。

他国の人から見た日本の習俗

炎暑の中、皆様体調はいかがでしょうか?
お盆の時期を初めて日本で過ごした中国人の友人に「日本の仏教は特殊ですね。」と言われて、少し驚いてしまいました。普段はあまり熱心な信仰者ではないような人々が突然地元に帰ってしまって、彼の住んでいるアパートは彼くらいしか残っていないのではないだろうか、と思ったそうです。地元に帰った理由は「お盆休み」ということで、「これは仏教の行事ではないですか!?」と不思議そうな連絡をしてきました。
確かに不思議ではありますが、日本人の仏教への接し方について、私は以前お示ししたようにカレーライスやナポリタンと言った日本で生み出された料理への接し方に似ていると感じています。
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彼と先日学業増進を目的に北野天満宮へ行きました。天神様へのお参りの後、参道を歩いて参道脇の東向観音寺へと向かいました。
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東向観音寺は菅原道真が太宰府で自ら刻んだ観音像をご本尊としています。神道である北野天満宮の中に仏教寺院があることに彼は極めて驚いていました。彼の驚きの原因は「神道と仏教がよく共存できたなぁ」ということのようでした。明治時代より以前は仏教と神道は厳密な区別もなく、ふんわりとした形で一緒に信仰されており、今のように仏教と神道が大きく区別されることの方が新しい考え方なのだということも伝えました。
私達が当然のことと思っている日本の文化や習俗は世界の人々にかなりの驚きをもって受け止められているのだということが今回よくわかりました。いろいろな人とボーダレスに交流していくことの大切さを感じました。

目に見えぬ物への感謝

お盆が近づいてきました。
弊社には幼いお子さんを育てながら勤務してくれている社員がおります。その内の1人のお子さんがディズニーの『美女と野獣』のヒロインのベルが大好きだという話を聞きました。私も嘗てアニメ版の『美女と野獣』を観た経験がありますが、記憶が曖昧でしたので、2017年に実写化された映画を観てみました。
お話の要旨は、「容姿にかかわらず”美しい”心を持つことの大切さ」を説いているものでした。確かに人は目に見える物事で判断してしまいます。それが至極当然な姿だと思います。しかし、それではいけない、ということを訴えかけている映画でした。
この映画を観て、現代の我々は目に見える物に囚われすぎていて、目に見えない物への感謝を忘れてしまっているのだということを感じました。目に見えない物とはすなわち「列祖への感謝」であります。今私たちが生きているのはご先祖樣方が居られたからこそなのです。勿論直接会ったことのないご先祖様は沢山居られますが、それでもそういったご先祖樣方への感謝を忘れてはならない、と感じます。
お盆を目前にして「目に見えぬ物の大切さ」を痛感した映画鑑賞となりました。

安田念珠店

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