2016 | 春は花

安田念珠店 オフィシャルサイト

春は花

新年に向けて

クリスマスが終わり、間もなく新年を迎えます。クリスマスツリーから門松へと街の装いが急激に変化するこの1週間は「日本らしさ」を象徴する1週間ではないでしょうか?

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カレーライスにナポリタンそれにラーメン、洋食や中華として一般的なこうした食べ物は実は日本で生み出されたものです。インド・カレーやパスタなどといった基礎となる料理は当然海外から日本に入ってきたものですが、それを日本人の舌に合わせて作り出したのがこうした食べ物なのです。
仏教もキリスト教も、日本で生まれた宗教ではありません。それぞれ、海や陸の道を通って伝わってきました。
仏教やキリスト教が入ってきた当初はそれぞれ排斥されました。仏教を巡っては聖徳太子が皇子の時代に起きた蘇我氏物部氏争い、キリスト教を巡っては江戸幕府によって行われた踏み絵にそれぞれ象徴されます。その後、時間を掛けて仏教やキリスト教は日本文化に適した形に変容し、受容されたのです。それは決して熱心な信仰を強制するものではなく、カレーライスやナポリタンを食べるように、時折接するという姿勢です。まさにクリスマスがその好例です。
日本はこうした「フィッティング能力(社会に適した形に変容させ受容する)」に長けていると言えます。その基礎となっているのが、「八百万神」の思想なのだと私は考えています。どこにでもあらゆるところに神が宿る、この考え方が様々な宗教を受容した理由なのではないでしょうか?
新年を迎えて初詣に向かわれる方も多いと思います。神社で柏手を打つ時、その心は仏様を拝む心と同じであると気付いて頂ければ幸いです。
皆様、良いお年をお迎え下さい。

日本におけるクリスマス

今週末はクリスマスです。クリスマスはキリスト教においてメシア(救世主)であるイエスが降誕(誕生)した日です。クリスマス(Christmas)という単語も分解すると「キリストの〔Christ〕」と「ミサ〔Mass〕(宗教儀式)」という意味の言葉となります。イエスの降誕が最初のミサで、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』で有名な「最後の晩餐」もミサの1つです。
日本では、松任谷由実さんの『恋人がサンタクロース』の影響が大きく、「クリスマス=恋人と過ごす日」という観念が定着しています。本来の意味と現実とが少し離れたものとなっているように思いがちですが、私は日本におけるクリスマスの意味合いの変化は実は共通点があるように考えています。

“恋人がサンタクロース” – 松任谷由実

キリスト教を信仰していない人にとって、イエスは歴史上の人物であり、信仰の対象ではありませんよね。もちろん会ったこともないです(笑)し、感情移入できる対象でもありません。だからこそ、日本におけるクリスマスでは、一番身近な「恋人」を大切にすることに重きを置いているのではないでしょうか?この「恋人」という部分を身近な人、例えば「親」や「家族」に置き換えても差し支えありません。「隣人愛」を説くキリスト教の教えを、最も身近な「恋人」に実践する。日本でのクリスマスは、実はキリスト教の教えを忠実に守っているのかもしれません。(「隣人愛」とは「神様があなたを愛しているのだから、あなたも同じように隣の人を愛しなさい」という意味です。)
日本でのクリスマスは、日本社会で長年培われてきた「孝行」や「思いやり」という考え方によって日本に適した形に変容したのかもしれません。

個性?

本ブログのサブタイトルに「西洋よりも東洋を好む……」と書いておりますが、今日は西洋のお話しです。
新年を迎えると日本でも様々な行事があります。世界的に有名な新年行事の1つとしてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートがあります。詳しくはWikipediaの説明をご覧ください。このコンサートでは、ヨハン・シュトラウス2世の作曲した楽曲を毎年演奏します。曲目に限りがありますから、もちろん重複する楽曲があります。このコンサートの見どころは毎年、著名な指揮者がタクトを振るうところです。日本人では2002年に小澤征爾さんがタクトを振るっています。

Carlos Kleiber – “Die Fledermaus” – J. Strauss – New Year’s Concert 1989

シュトラウスⅡ世 歌劇「こうもり」序曲 小澤征爾 ウィーン・フィル

上に掲載した2つの動画は、上がカルロス・クライバーの指揮のもの、下が小澤征爾さんの指揮のものです。同じ『こうもり 序曲(Die Fledermaus)』なのに、微妙に違っています。楽譜も場所も同じですが、指揮者と演奏者が違うと微妙な差が生まれます。テンポやそれぞれの楽器の音の強弱など、指揮者の楽曲への解釈の違いによって差が生じます。
この2つの演奏の違いから何が見えてくるでしょうか?私は、これこそ「個性」だと考えています。同じ楽譜の曲目を演奏しても全く同じものとならない。これは自明のことのようで、案外気付いておられる方は少ないように思います。
仏教も神道もキリスト教もイスラム教も、教えは違えど信じる人その中身は同じです。各宗教の「個性」を知ること、これも仏教への理解を深めるために必要なことだと思うのです。
今日はクラッシック音楽を手掛かりに考えてみました。

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音楽の聴き方――聴く型と趣味を語る言葉

著者:岡田暁生 
出版社:中央公論新社
発売日: 2009/06/25
メディア: 新書
参考URL:http://www.chuko.co.jp/shinsho/2009/06/102009.html
(中央公論新社)

八百万神

「八百万神」――皆さんはこれを何と読みますか?
私は小学生の頃に授業で「はっぴゃくまんしん」と読んで、恥ずかしい思いをしたことがあります。
これは「やおよろずのかみ」と読みます。「八百屋」の「八百やお 」と「萬屋錦之助よろずやきんのすけ 」の「よろず 」(「萬」は「万」の旧字です。)と理解すれば、納得です。
「八百万神」とは簡単に云えば「日本古来の沢山の神様」という意味です。
伊勢神宮や出雲大社などは神話に出てくる神様がご祭神の神社です。一方で、明治神宮は明治天皇と昭憲しょうけん 皇太后こうたいごう (明治天皇の皇后)をご祭神としてお祀りしており、このように実在の天皇陛下・皇后陛下がご祭神の神社もあります。他にも、八幡神(はちまんしん/やはたのかみ)、稲荷神(いなりのかみ)など、様々な神様が全国各地で祀られています。
学問の神様として有名な「天神さま」(天満宮)のご祭神は菅原道真公です。天満宮は神話に登場する神様や天皇陛下・皇后陛下を祀った神社ではありません。映画『陰陽師おんみょうじ 』で有名になった安倍晴明あべのせいめい を祀っている晴明神社もこうした神社の1つです。神様と言っても趣の違う神様が沢山おられます。
「八百万神」は「自然のあらゆるものに神が宿る」という考え方を基礎にしています。ですから、沢山の神様が居られても不思議ではありません。
手を合わせる時、皆様は誰かを思い浮かべることが多いと思います。日本における「八百万神」は私達の「誰かを思い浮かべで手を合わせる」という意識と近いように感じます。
日本で神道と仏教が融合したのは、こうした意識を仏教が受容できたからかもしれません。

毎日、良い日だなぁ。

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早、十二月。1年の最後の月です。「光陰矢の如し」とは言いますが、時の流れは本当に早いものです。
ここで「時の流れが早い」と言いましたが、そんな言葉を呟けるのも毎日生きているからなのです。これは当然のことですね(笑)。しかしながら、実はよくよく考えてみると大変恐ろしくまた凄いことと言えます!!!
1人の男性と1人の女性が出会い、そこから子供が生まれます。人と人が出会うのも、タイミングが合わないと出会えません。例えば、生まれるのが1年違えば、学校で同級生にならなかった、という事態が起こり得ます。両親が出会った“偶然”、そして私たちがこの世に生を享けた“偶然”、そうした“偶然”の積み重ねで私たちの「今」があるのです。こう考えると、生まれたことは実に不思議ですし、人との出会いも実に不思議です。
「日々是好日」という言葉があります。言葉の解説はWikipediaをご覧ください。簡単に解釈すると「毎日、良い日だなぁ。」という言葉です。ただ、「毎日が良い日」ということの基礎には膨大な数の“偶然”が重なっており、そして「今」があるということ、こうした深い意味がこの言葉には隠されているのです。
人との出会いと別れ、こうした“偶然”と寄り添い、その傍にあるのが念珠です。私たちの大切にする気持ちを十二月に考えてみました。
(右の画像の書は京都・慧日山東福寺前管長・遠藤楚石老大師様が揮毫なさったものです。)

世の儚さを知る

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弊社には上の画像の書が掲げられております。
この書は弊社の本店営業部が竣工した記念に当時の醍醐寺の門跡様であらせれた岡田おかだ宥秀ゆうしゅう猊下げいか(1907年-1985年)が揮毫きごうして下さったものです。
弊社の本店営業部竣工以来ずっと掲げられています。1985年(昭和60年)に完成致しましたので、もう30年以上もの間、私達を導いて下さっております。
「大覚」という言葉は「夢から覚める」、つまり「この世は非現実なのだ」ということを教えてくれています。
「祈り」は、身近な人が亡くなったり、大震災などのどうしようもないことが起きた時に行うのが常です。
「祈り」が基盤にある念珠――私達の扱う商品は世の儚さを知らずして扱えないのです。
この書を掲げ続けているのは、「私達が世の儚さを忘れてはならぬ。」という弊社先代からの変わらぬ心意気の現れなのです。
USBメモリー紛失などの卑近な例からでも「世の儚さ」を感じることは実は大切なのかもしれません。

先日、私は落とし物をしてしまいました。この数年間で私自身が作成してきた文書などが保存されているUSBメモリーです。
無くなってみて初めて、そのUSBメモリーの自分自身にとっての重要性を知りました。何年も掛けて培った物も失うのは一瞬です。
何とも儚い(はかない)と感じます。
さて、前回「覚醒」は「目覚める」と同じ意味だと書きました。では何から「目覚める」のでしょうか?実は、「夢から目覚める」のです!
(右の画像の掛物は京都・東山建仁寺管長・小堀泰巖老大師様が揮毫なさったものです。)
日々の眠りの中で「夢」を見ることはありますよね(=睡眠中の幻覚)。また、将来の希望を「夢見る」こともありますよね(=将来の理想)。どちらの「夢」も「非現実」ということは共通しています。
仏教では、人生そのものが「夢」なのです。つまり、「人生=非現実」なのです!
儚い(はかない)」と言う漢字は「人+夢」ですし、ここにも仏教由来の言葉があります。
世の儚さに気付く――これが「覚醒」への第一歩なのかもしれません。

覚醒

『ドラゴンボール』(DRAGON BALL)は数ある漫画やアニメの中でも特に有名な作品です。老若男女を問わず、多くの方がご存知だと思います。主人公の孫悟空(カカロット)が強敵に出会う度に進化を続ける物語です。
『ドラゴンボール』では孫悟空やベジータなどのサイヤ人が自らの潜在能力を呼び起こし”覚醒”すると「スーパーサイヤ人」になります。物語が進むとスーパーサイヤ人以上の形態も登場します。

超サイヤ人3――孫悟空変身

この”覚醒”という言葉、実は仏教に由縁する言葉と言えます。お釈迦様が悟りを開かれて「覚者(かくしゃ)」になられたことに由来します。「覚」も「醒」も「さめる」と読みますし、「覚醒」という言葉よりは「目”覚”める」という言葉の方が馴染み深いかもしれません。日本の有名寺院でもこの「覚」の入った名前を持つお寺様は多いですよね。例えば、大覚寺(京都市右京区/真言宗大覚寺派)、円覚寺(神奈川県鎌倉市/臨済宗円覚寺派)、妙覚寺(京都市上京区/日蓮宗)、本覚寺(神奈川県鎌倉市/日蓮宗)などが挙げられます。
仏教において、人はこの「覚者」に成るべく修行をしていると言えます。『ドラゴンボール』風に言えば、「スーパー ホモ・サピエンス」を目指していると言えるかもしれませんね。
「覚」という言葉一つとっても、実は私たちは仏教と無意識に触れ合っているのです。

春は花

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本ブログは本日11月11日で開設1か月となりました。そして毎月11日は「東日本大震災の祈りの日」です。ここで本ブログのタイトル「春は花」についてお話をしてみたいと思います。
「春は花」と聞くと、道元禅師の歌を思い浮かべる方が多いと思います。
春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて、すずしかりけり
この歌が有名となったのは川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演で引用したことが大きいでしょう。 (受賞記念講演の全文は下記の書籍をご参照下さい。)
川端康成はこの歌を日本の四季の美しさを端的に表現したものと評しています。もちろん四季の美しさを感じ取れる素晴らしい歌ですが、この歌にはそれ以上に深い意味があります。
この歌には実は出典があります。『無門關』「第十九 平常是道」が出典です。(足立大進(編)『禅林句集』(岩波書店、2009年)413ページ参照)
これを解釈することはなかなか骨が折れます。 この歌は四季の美しさを表現しつつも、自らの中の「真実の自己(無相の自己)」を表現している歌なのです。
私は、「人間は四季の美しい自然の中で生きており、人間は自然と共にあるのだ。」、ということを教えてくれているのではないかと考えています。
便利になった世の中で「祈り」を考える。本ブログの趣旨を考えた時、道元禅師の歌を思い浮かべました。
(右の画像の掛物は京都・東山建仁寺管長・小堀泰巖老大師様が揮毫なさったものです。)

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美しい日本の私

著:川端康成 
訳:サイデンステッカー,E.G.
出版社:講談社
発売日: 1969/03/16
メディア: 新書
参考URL:http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061155800
(講談社BOOK倶楽部)

仏教と日本

『寺院消滅』――こんなセンセーショナルなタイトルの書籍が書店に並んでいます。最近では仏壇の無いご家庭や「墓終い」をする方々も少なくありません。

しかし、不思議なことに京都の寺院には多くの人々が観光に訪れています。例えば、清水寺。ほとんどの方は清水寺をご存知だと思います。ですが、「清水寺のご本尊様は?」という問いに答えられる方は少ないように思います。(清水寺のご本尊様は千手観音様です。)

日本では多くの人々が仏教を熱心に信仰しているわけではないようです。これは今も昔も違いはないように思います。

それではどうして多くの家庭が「檀家」として今も特定の寺院の信徒とされているのでしょう?
不思議ですよね。

私の考えですが、この「檀家制度」は徳川幕府による戸籍制度だったのではないでしょうか?

キリスト教を禁止し、「踏み絵」を行った徳川幕府は、キリスト教の禁止と人口把握の為に仏教を利用した、と私は考えています。そう考えれば、徳川幕府が倒れ、公的な戸籍制度が確立された現代では、「寺院消滅」という流れは自然なものなのかもしれません。

ただ、1000年以上もの間、この日本に根付いてきた仏教を知ることは、日本について知ることに通じると私は考えています。

仏教と日本、歴史をみると信仰という側面だけでは説明できない関係性を見出だせます。

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寺院消滅――失われる「地方」と「宗教」

著者:鵜飼秀徳
出版社:日経BP社
発売日: 2015/05/25
メディア: 単行本(ソフトカバー)
参考URL:http://bpstore.nikkeibp.co.jp/item/books/240960.html
(日経BP書店)

※このブログは、多くの方々に念珠、仏教、京都に関心を持って頂くことを目的として、週に1回程度の頻度で更新して参ります。

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