「十代目の部屋」コラム8 ‐ 天和3年(1683年)創業の安田念珠店

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第8回 今に生きるお経
浄土三部経の中に「無量寿経」というお経があります。このお経は称名念仏という浄土宗、浄土真宗の根本を提供した経典として有名です。この中の、三毒段、五悪段という部分に次の様な箇所があります。

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「人はこの愛欲の世間にひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、ひとりで来るのだ。行うところに随って苦しみの人生を得たり、幸福な人生を得たりする。行う者自身が、その報いを受けるのであり、代わりに受けてくれる者はだれもいないのだ。善と悪とはその報いを異にし、わざわいと幸福とは別々の所で、あらかじめ厳然と(来るべき人を)待っているのであり、人はひとりでそこへ赴くのだ。・・・」

(中村元 早島鏡正 紀野一義 訳註『浄土三部経 上 無量寿経』ワイド版 岩波文庫 岩波書店 1991年 100頁)

「はるかなものを心に思うということがなく、皆(目前の)快楽を追い求めるばかりである。愛欲に迷って、正しい生き方に達することなく、怒りに溺れて、財貨や色欲を貪るのである。このように生きることによって、道を得ることがなく、悪所の苦しみを受けるばかりで、生死の繰り返しが終わることはないのだ。哀れむべきことよ。傷ましいことよ。・・・」

(中村 早島 紀野 前掲書 102頁)

「悪というものは長い時間が経って後に集中して来るものなのだ。最初はごく小さな悪であってもやがて大きな悪となる。これらは皆、財貨や愛欲に執着して、人に与える気持ちが持てないことからおこるのである。無智と愛欲にせめられて、考えることが次から次へと迷いになり、それに縛られてほどける時がない。自分の利益ばかりを厚くしようとして他人と争い、反省することがない。富や名誉や繁栄などがあらわれるたびに溺れて、堪え忍ぶということができない。努力して善を実行することがない。(もともと)力はたいしてないのであるから、まもなく尽き果ててしまう。・・・」

(中村 早島 紀野 前掲書118頁)

現代の日本の仏教においては、お経は漢文を 読誦するものとなっています。まるで、呪文を唱えるように、意味が多少分からなくても読誦することが意味を持っているようです。しかし、お経に書かれていることを現代風に訳してみれば(訳が素晴らしいのですけれど)、我々が想像していなかった人間くさい文章が表れてくるのです。このお経が古代インドのいつ頃成立したのかは知りませんが、ご覧になった様にそこには我々の生きる現代と変わらない、人間の欲望に纏わる悩みが綴られているのです。昔も今も、人間は富や愛欲に執着し、迷い悩むのです。

私は、「無量寿経」のこの部分を読みながら、仏教は決して死者を弔うだけのもの、祖先を祭るためだけのものではないと思いました。仏教は今を生きることに対する哲学であり、経典はその指南書であると思うのです。そして、お経を現代風に理解することで、現代という物質万能文化の中で暮らす我々日本人には、より有効な精神的バックボーンを形成できるのではないかという思いを強くするのです。

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